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メッセージ
牧師の説教を掲載します。
2018年4月22日(日)
「メシア的牧者」
今日の聖書の箇所は、二千年前のパレスチナの生活の事実です。
「よい羊飼い」は羊のために命を捨てる。
聖なるものとして神に献なければならない羊のために命を捨てるからです。
私たちは、迷い易く弱い羊として喩えられています。
事実よい羊飼いのイエスは、罪人である我々を救い守りながら良い羊飼いとして我々の罪を贖い、十字架の死によって我々を聖なるものとして神への供え物としてくださっておられます。
それは、神の国に入れる備えを能動的にイエスはなして下さっておられるのです。
イエスの十字架の死こそが我の神の国への入り口であり、わたしは門である。
2018年4月8日(日)
「イエスとトマス」
 スポイルされたわけではないが、弟子としてそこに居合わせなかったので、悔やまれたことでしょう。
他の弟子たちは、異口同音復活のイエスにお会いしたことを語っているのに自分だけのけ者扱いはないでしょう。
イエスはトマスの実証主義的な考えを受け入れて傷穴を見せています。
当初から実証的であったのです。
見て確認して納得いく姿勢でした。
ところがイエスは、トマスだけにでゃなく、すべての人に「見ないで信じる信仰を幸いである」といい。
実証されたこの生生しい傷跡は、誰があけたのか、誰の責任であるかを言外に問うています。
トマスは、自分の責任(罪)を強く感じたのです。
だから「わが主、わが神よ」と叫ばざるを得なかったのです。
2018年3月18日(日)
「皆、仕える者」
「多くの人の贖い」の表現は、『すべての人の・・・」という意味です。
最近の傾向として「贖い」とか「身代金」という言葉は、流行りません。
精精、ゲリラや、奴隷の売買のときに使われる言葉です。
しかしこの言葉の意味は、『解き放つ」解放する」のですからその状況下の者にとっては大変ありがたい言葉です。
私たち信仰者は、皆、この方の犠牲死、十字架の贖いの死によって、死ぬべきはずの者が、死によって解放され、許され神に受け入れられたということですから、これは感謝と喜びの告白以外にはありえません。
イエス・キリストは私たちに救いをもたらすために僕のように神に服従し、愛する人間に仕えられたのです。
12人の弟子のように、栄光を受けたら位を、いい地位をとせがむ弟子たちの姿では、到底及ません。
イエス様の神への聴従があり、子供っぽい弟子たちの姿に、良くイエスは我慢ができたと父と「神の子」の絆の深さもさることながら徹底して十字架の死を貫いていった。
新しい誕生の喜びには、毅然としたイエスの受難の死が、光っていることを忘れてはなりません。
我々の受難があるということです。
それは『贖い』の死ではありませんが、福音をもたらすものです。
「愛する者たちよ。
神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」(1ヨハネ4:11)
2018年3月4日(日)
「ペトロの告白」
この「告白」は弟子全員のものですが、これに主は喜ばれません。
その後の弟子たちの歩みが、頼りないからです。
形ばかり、その場しのぎのお題目のような告白なら、しないほうがよい。
意味がない。
信仰の目に霞がかかったあの盲人の癒しの場面のように、はっきりと見える告白ではない弟子たちです。
ですから弟子の生涯をかけて主は告白を迫ります。
 復活のイエスのほうから、面と向かって問い、問われ、弟子たちが、やっと目のおおいが取り去られたようによく見えるようになり告白ができたのです。
私どもの信仰の生涯は、苦改めて生涯にわたってイエスをキリストと告白し続けるのです。
2018年1月28日(日)
「弟子の召し」
イエス様が、御自分の弟子を召す基準とその召しの方法は、私たち人間の基準では、およそ考えられないところがあります。
一見私どもの真似のできない方法でなしているようで、そうではない。
召しの基準は、社会的に基準があるわけでない。
これから導いて世界伝道にまで弟子のレベルを信仰的に深める意味で私どもの日常生活にある課題を取り上げながら招きます。
そして根本的にはイエスに「従う」ということだけを求められ、基準にした。
 神の国宣教は弟子と共にあり、弟子のいない宣教はありえません。
最初の出会いで、漁師たちがすぐさま応答していることを説明するに役立つような、それ以前の接触は記されていないし、その応答の発生は曇らせるような以前の失敗は記されていません、ここではただイエスの権威と弟子たちの応答であります。
臨場感には、出会いの新鮮な雰囲気を高めている。
2018年1月7日(日)
「神と人から愛されたイエス」
四つの福音書の中で、ルカだけが、イエスの少年時代のエピソードを記録しています。
12歳まで(中学1年ころ)家庭と、会堂と、神殿を通して育てられた。
今日の場面は、エルサレム神殿境内での出来事です。
子供が大人たちの中でといっても、ユダヤ教の学者たちの真中で信仰の問答している。
親たちにすれば、考えられないような状況です。
「どうしてこのようなことをしてくれたのですか」と、怒りと当惑の入り混じったやり場のないイエスの両親の戸惑いです。
「私は自分の父の家にいたのに、わからなかったのいですがか、どうして探したのですか」イエスは信仰の次元で答えています。
両親が、このことを理解できたのは、わが子イエスが、大人になって、エルサレムで十字架刑され、死して、三日目によみがえった以後において、イエスのこの答えが理解でできたのです。
イエスの自己啓示の深さが、そこにあります。
2017年12月24日(日)
「マリアの賛歌」
イエス様の御降誕に先立って、聖霊に満たされたマリア・エリサベトの信仰の姉妹は、神を賛美しております。
人間としてまた信仰者としてこの姉妹たちの生き方,信仰の姿勢は、すばらしいモデルです。
モデルといえば、スタイル容姿などを気にしてしまいますが、それはさておいて、生き方、信仰の姿勢ほどモデルとして相応しいのではないでしょうか。
この姿勢は、どの様な困難・試練にあっても雄雄しくかつしなやかにかつ大胆に信仰の生涯を貫いて行ったことです。
それは今も働く、神の御手に支えられ、神の言葉をしっかり信じ歩んで行った。
いつの時代でも、このクリスマスの出来事が守られていることは、神の真実が、昔も今も変わらずに、そして、未来にわたって創造の神ご自身が行っているからです。
マリアの賛歌は、過去自制で語られていながら、神が今も働き、そして将来も働く神であることをもの語っています。
神の真実が、昔も今もそして未来も区別なくなされる成就された事実として宣言される。
そして運命の逆転がマリアの選びとして起こり、起こっています今も、
2017年12月17日(日)
「洗礼者ヨハネ」
マルコは、イエス・キリストの福音を書き始めるのあたって。
旧約の予言の成就としての洗礼者ヨヘネを抜きにして書き始めることが出来なった。
つまり福音(喜びの音ずれ)は、すでに、イエス以前(登場する以前)からであり、宣教は洗礼者ヨハネから始まり、全世界に広がる教会にいたるまで、喜びの音ずれが宣べ伝えられていく中で、すべてをなしたもうのは神であるということは、ただ信仰の証言としてのみ聞き取り、かつ理解できる。
それは、すでにイエスの復活を知っている信仰者だけである。
マタイ、ルカのような倫理的宣言でなく、来るべき方への志向を強調する言葉として7,8節に重点があった。
2017年12月10日(日)
「汚れた手で」
一見正当な主張のようでいて、小さい抜け穴のような道が、誰でも通れる大道となって、本来の原則が、おろそかにされてしまう由々しき事態が、生まれてしまうことに、パリサイ人や律法学者は、感じなかった。
甘かった。
なぜか、人間中心に事柄を考え、優先すべき信仰、神の事柄が無関係に扱われてしまっていたからです。
神の御言葉が、人間の言い伝えによって無力化されてしまう事態が、多くあったようです。
本来言い伝えは、神の御言葉を有効に、生かすために守られることです。
言い伝えによって神の言葉の守り方を手ほどきされていたのですが、イエスの時代になるとそれが逆転し、神の言葉よりも、「言い伝え」のほうが優先されて、御言葉が、おろそかにされ、神の尊厳が損なわれる事態が起こっていました。
昔の言い伝えや、人々の戒めが重んじられ、神がむなしく崇められている、ということをイエスは指摘なさいました。
例として、コルバン(捧げものです)一言いえば、神の前でのご両親との約束も「反故」にすることができる。
これは、両親を大切にするという神の戒めもおろそかにする行為ですが、同時に、神の思いをも軽んじる結果となります。
二重の罪がおきます。
本来の原則がおろそかにされ、細則によって抜け穴が生じてしまうような悪しき人の言い伝えです。
悪しき、笊法です。
つまり守らなくてもよいように原則から外れてしまう「言い伝え」です。
イエスは、原則に立ち返ることを主張したのです。
2017年12月3日(日)
「目を覚ます」
主の来臨までの期間は、来られる主の前で、責任ある行動をとるべきときです。
そこでの忠実こそ「目覚め」です。
心はいつも「目を覚ましている」ことです。
救われた私たちは、いつも、イエス様の声に敏感に反応します。
例え、労働で、へとへとに疲れ切て眠っていても、突然の主の呼びかけに声を聞いた時きに、「目を覚ます」のです。
イエス様に救われた者は、全てどのような人であっても、そのイエス様の声に反応します。
雑踏の中でも、満員電車の中でも、夜通し働いて眠たいときも主の声に敏感に反応するのです。
肉体は衰え、疲れていても、主の声に反応します。
つまり目を覚ますとは、寝てもさめても、心の目がいつもそこに(御言葉)あるということです。
眠って(無意識の中で)いても主の声を聞いているのです。
迫害と試練の中にあっても心安らかに全世界をとらえる証言としての生を生きるのです。
主が来られるということを知っていることこそ明るい輝きです。
2017年11月19日(日)
「強いみ手によって」
モーセが、エジプト人の使役者の虐げに耐え切れず、同胞のイスラエル人を助けるために、激しく鞭打ちをするエジプト人を殺してしまった(暴力)。
これで彼は40年間ミデアンの地で、悶々とする人生を送った。
この事件で、イスラエルの民の救出が40年間遅れたことになるのではないか。
もっと言えば、エジプトの王子としての立場から、エジプト人をたしなめるほどでよかった。
殺すことはなかった。
さらに、王子の立場で分け入って。
その同胞の鞭打ちを代わって受けるほどの勇気で申し出ていたら。
事態はもっと変わった展開をしていたでしょう。
歴史はそのようには、動きませんでした。
殺人事件が、ファラオ王の怒りをかいミデアンに逃亡生活を余儀なくされたのは、そのままイスラエルの解放が40年延長してしまったことになる。
教会の中でこのような醜い事件が起きないとは限りません。
宣教の担い手が思わぬ失敗に遭遇することがあります。
しかし主なる神は、強い御手を持って民を救出させています。
2017年11月12日(日)
「復活問答」
神は燃える柴の間から苦難と行き詰まりに打開の道を求める民の叫び声を聞き分けモーセに語りかけます。
神は、このような光景の中において出会うのです。
神は人間の悩みを聞き、現実の中においでくださり。
アブラハム、イサク、ヤコブの生きた神として現れます。
イエスは、復活信仰のないサドカイ人の現実逃避、あまりにも現実主義的生き方を批判しています。
困難にあえぐ、民の声を聞き分けることができない、指導者の現実主義的、権力志向的、財力にものをいわせるサドカイ人(祭祀階級)では、祭りごとも形だけになり、民衆から離れます。
正しい祭り事ができず、形骸化が進むだけです。
死に打ち勝つ復活信仰の欠如は、未来志向がなくなる。
礼拝が形骸化(不活性化)し、祭りに感謝も喜びもありません。
2017年11月5日(日)
「神を誇りとする」
 本日は、聖徒の日・召天者記念礼拝の日です。
私たちの教会は、今年140年経ちました。
主なる神は、これらの信仰の先達たちをお送りくださり、信仰の道を整え備えてくださいました。
神と敵対関係にあった罪人である我々が、神の御子・イエス・キリストの十字架の死による贖いによって、和解を受け、御子のいのちによって救いに預かるものとされた。
大きな喜び(誇り)を与えてくださった。
救われた喜びは、私たちの神の誇りです。
わたしたちも神を誇るものとされた!教会によっては、信仰の先達たち(故人)のお写真を講壇の前あたりに並べ飾って召天された故人を偲ぶところもあります。
それこそ故人がお写真の中から生存する我々に天国(神の国)に凱旋したものの勝利の微笑みのが、伝わり温かみを感じます。
2017年10月22日(日)
「「時」を知らない」
「時」は過ぎ去り、流れていきます。
その中で主を待ち望む、主の再会(再臨)を信じ、救いの光を掲げて持ち望み続けることです。
十年、二十年・・・何百年・・教会が行ったのは、キリストの花嫁として、主の業を行いつつ、その再会を喜び心待ちにして信じているからです。
イエスさまの方も地上の信仰の友が待っておられることに期待していますが、その日、その時は、主なる神にしかわかりません。
待ち続ける間には、何があるかわかりません。
怠惰、居眠り、道草もあるかもしれませんが、礼拝の中で神の言葉(御言葉)に生かされ、時の流れの中で、唯一確固として立つ、固く信仰に立つことができます。
主は約束の主であるからです。
御言葉こそが、時の流れにの中で、我々を生かし、生きる勇気を与え活力を与え、信仰の力となっていき続けます。
2017年10月15日(日)
「信仰によって」
イスラエルの象徴的な一つである「いちじくの木」が、のろわれています。
なぜなら、神が必要とされていると時に、枝葉は、茂っていますが、肝心の実がなかったからです。
その用意がなく、役に立たなかったことで、神からのろわれています。
神に用いるられないものはみな、滅びるのです。
エルサレムの神殿にもいえます。
「二人の息子」のたとえでは、「親の言うことを」聞いて、「ハイ」と返事をしていても、実際に実行したものが、神に喜ばれています。
イエスの権威を疑ったものが、かえって曖昧な存在となり、存在が怪しくなります。
信じないからです。
「当時の罪人たち(徴税人や娼婦たち)が、省みられています。
神を信じて、悔い改めて立ち返ったからです。
信仰によって、後の者が先になることがありえます。
神によって逆転です。
2017年10月8日(日)
「この最後の者にも」
今の世界は、「労働意欲」を削ぐことが多いようです。
人は、創造のはじめから働くことに喜びを見出しています。
しかし今の世は、誘惑が多く、ちょっとの労力で、利益を多く得たいという労働意欲も逆転しています。
利潤社会がもたらした能率優先主義から「働く」という本当の意欲をそがれます。
天国ではそうではありません。
みんなが仮に競い合ったとしても始めの者が後になり、後の者が先になる、という逆転が起こっています。
多く働いても、少なくとも、最終的には、みんな同じ働きとして認めてもらえるのです。
労働の質が、夫々の労働時間に換算されたり、先に働いたから、あるいは後から出遅れて働いたとしても、差別感がないのです。
むしろ働かせていただいたことへの感謝です。
神の招きに快く聞き、こたえ、働き、使徒も、祭司も、奉仕者も同じ命の奉仕者として機能する、そこには自己満足や、他人の「ちり」を指摘するようなことはしない。
神は招きに応え参加し、信じて応答するものに喜びを感じます。
憐れみの主が、この最後の者にも同じ恵みを分かち合う喜びと感謝をもたらす、イエス・キリストの十字架の贖いです。
2017年10月1日(日)
「命を救うために」
岩本教会の伝道の始めは、村娘の救いから始まりました。
明治10年ころのことです。
その頃全国的に疲弊し、映画の「おしん」の時代で、身売りが横行し、社会が大変乱れていた時代でした。
岩本出の村娘が、横浜でキリスト教に触れ、郷里伝道を願ってピアソン宣教師に申し出たところ、快く引く受けてくださり岩本の宣教が始まりました。
都市部でなく、萎びた田舎の村からその宣教が始まり140年続いたのです。
県下でこれほどの歴史の教会は、2つほどです。
今全国的に教会の伝道が衰微しているそうです。
その原因を探るよりも私たちの日々の業である福音宣教の目がどこにあるか、また何を見、聞いているかではないかと思います。
たった一人の村娘の「助けてください」という懇願に引かれて宣教師は、岩本を棄てておかなかった。
一寒村の人々に目を留められておられます。
神の耳と目が必要です。
主なる神は、教会を、人々の「命を救うために」各地に派遣されています。
2017年9月17日(日)
「心を一つにする」
 このマタイ18章は、「天国で一番偉い者はだれか」の弟子の問に、「幼子のように自分を低くするものが一番偉い」とイエスが答える。
新しいトーラー(律法)です。
「小さいとは」弱い、軽んじられる。
という意味です。
人は、高慢になり、優越感に浸りやすい。
しかし聖書は、人が、いかに小さい者あるかを知らしめています。
小さいとは、許された存在です。
又、許されている存在だから、「子どものように一つになって」集まれるのです。
この箇所での喩えでは、「迷いでた羊」を小さいものとして、神が滅びることを喜ばれない。
また罪に陥った者が、滅びること喜ばれない。
7×70倍も許された存在であることを忘れず。
許されたものであることです。
われわれ教会は、その許しの神の愛を持って、「つないだり、解いたり」の権能が授かっています。
この権能は、誰でもが「神の救いに与るためのものです」わが名によって幼子のように許されたものとして最小単位の2,3人集まるところにも、わたし(神)も三位一体神として、そこに実存し、神がかなえてくださるのです。
2017年9月3日(日)
「毒麦のたとえ」
人間の救いのために、贖いの死をもって行動を起こされたイエス・キリストご自身のメッセージです。
我々人間の弱点を突いていると思われます。
それ故、この譬えは、緊張させられます。
なぜなら、人間の救いの業をそう性急にすることによっては、何も実りが伴わないのではないかと思います。
主から頂いた信仰は、焦らず、怠けず、 ゆっくりと寛容で用心深いことのほうが、安全です。
性急な判断は、似て非なるものも見落としたりします。
この譬えは、昔も今も収穫量を気にする人の心の捉え方に警告しているようでもあります。
量を気にすれば、焦ります性急な判断を誘います。
そこに価値観の問題が、質の問題にすれば、多少異なるものとも共存して生きる強さがあります。
神は性急な人間の判断を退け御自分で、最後の審判の救われる者の質を問うています。
誰でもサタンの試練にあわないものはいません。
多少なりとも、人間は「悪」に染まっています。
だから一見毒麦のように見られるかもしれませんが、除去するかどうかは、神のご判断によって「よき時にそれは完成される」ことです。
今は、神の御言葉を蒔くお手伝いをしていくことで、教会全体の質が問われます。
性急な判断は、下手をすると、神をも敵に回す、自己自身が「毒麦化」になってしまうかもしれません。
否、神の目的は、十字架と贖いの死をもって示された人の救いです。
と言うこたは、毒麦でも、麦になることが可能です。
神にはできないことはない。
2017年8月13日(日)
「天の国は、近づいた」
神の民が、飼う者のいない羊の群れのように「弱りはて、打ちひしがれている」とその有様を描かれています。
イエスによって訓練された12弟子たちは、宣教に遣わされます。
イエスの権威を持って「天の国は、近づいた」と説教をするイエス御自身の宣教の業の継承を示します。
その宣教は当初は、ユダヤ同属に限定されたものでしたが、その後、復活のイエスの要請により、全世界に、「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも」神の国の福音宣教をしるしを持ってあらわしています。
今の宣教は、宣教師を派遣するだけでななく、医療・教育・農業等々へとさまざまな方向に目を向け宣教を引き継いで行っています。
大変幅広い宣教です。
主イエスの「宣べ伝えなさい」と「癒しなさい」という命令とが、不分離な働きとしてなされています。
2017年7月9日(日)
「何よりも 求めるもの」
 豊かな時代に生きている私たちに、神はこのように要求します。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」マタイ6:33
2000年前のイエス・キリストがおられた時代に語られた真理の御言葉は、今も変わらずに、この時代に私たちの力となり胸を打ちます。
 日本の6月は、風水害の多い時季で、このたとえには、パレスチナでなくとも今も通用します。
私たちの人生の基礎をどこにおいて生きているのでしょうか。
砂や泥の上ではないとおもいます。
家屋が、あのように濁流にのまれ、流木の散乱する砂地に民家が点在する有様は、家屋の喪失以上に、私たちの魂がどこかとんでもないところに彷徨っているような感じがいたします。
 風に吹かれて飛んで行ってしまうモミガラのような生き方はしたくありません。
しかし私たちは、割とうわさ話しや風評に左右され、人生を送っているようなところがあります。
主は、そのようなことでも微動だにしない、確固とした信仰の基礎を与えてくださいました。
「十字架の言葉は、救いに預かる私たちには、神の力です」1コリント1:18
2017年7月2日(日)
「神の知恵・キリスト」
「しかし。わたしは言っておく、・・・」のイエスの言葉によって始まる6つの「対立命題」は、どれも旧約聖書の律法と対比した福音が提示されています。
人間の本質は、「禁止されると」それをしたくなる、おかしな性格を持っています。
子供などは特に、親が「それはだめです」 などといえば、やりたくなるものです。
この「6つの対立命題」は、従来克服することに関して、人類は、みな戦い思い悩まされた事柄です。
主は、禁止することによってさらに事態が急激に悪化することを、避けむしろ克服する手立てを示された。
それが律法に示された神の意思を完成させる目標となることです。
このイエスの教えは、形式的、表面的に実行し守ってきた人間にとって、律法が否定されたかのように思われたのでしょう。
イエスは否定されたのでなく、事態の深刻さに解決の糸口を与え問題を克服する新しく生活の仕方を教え、変えさせたのです。
この教えを守ってきた主の教会は、み言葉によって存続することが許されています。
争いでなく、和解を、敵対し裁きあうことでなく、許しの愛を示していくことです。
「十字架の言葉は、滅び行く者にとっては、愚かなものですが、私たち救われるものには神の力です。」(1コリ1:18)
2017年6月11日(日)
「負い続ける荷」
重荷を理解できなければ、人生にとって隷属的負荷としか受け取れないでしょう。
つらくなります。
主の招きは、「誰でも重荷負うて苦労しているものは、私のもとにきなさい、休ませてあげよう。
わたしの軌は負いやすく、私に学びなさい」。
主は、私たちのために最も重い十字架という重荷を負われ、私たちをとりなし、招いておられます。
我々の重荷は、課題が多すぎて一人では負いきれないのです。
皆、それぞれ負いきれないものを背負っていますからやり切れません、しかし、我らの主イエス・キリストは、全責任を負うかのようにして我々の負いきれない重荷をともに担おうとしておられます。
主が共に担ってくださいますから楽なのです。
負いやすいのです。
一人で悩まないで主が共に負い悩んでくださるから、理解してくださるから、負いやすく、重荷が軽く感じられるのです。
これは、誰ものが、主に服従するときに、与えられる荷重の喜びです。
主が共に担う時、我々の重荷を理解し、担いやすくしてくださることです。
主に服従するとき、我々は始めて主を知ることができるのです。
信仰が先きか、行為が先きかといえば、信仰において服従し行為をするもです。
そこに御心が、主の思いが分かり、主に愛されているので、重荷が軽くなります。
主は、十字架においてまるで自分の責任のごとくに、我々の重荷を担われてています。
2017年6月4日(日)
「傷ついた葦を折ることなく」
外は殺意の渦巻くさなかですが、どうにかしてイエスを処刑しようといきまいています。
しかし生と死、命の主権者は、キリストです。
この福音書を記録したマタイは、神の子イエスを第二イザヤの予言の言葉を引用して告白しています。
主は、確実に、なんとしても神の御意志によってその正義の道を確立するために、十字架の道を選びとりました。
私たち罪びとの救いのために真実に生きた方であります。
 でたらめだらけの人間に、神の子を差し出してまでして、救おうとされている神の御意志の強さ、そのすざましさを感じないでしょうか。
ペンテコステ(聖霊降臨日)にふさわしく、神の霊自(聖霊)らも人間のために働き、神の霊によって集められた人間の集団(教会=信仰共同体)を用いて神の業をいたします。
傷ついた葦を折ることなく、人間に寄り添いながら救おうとされてるイエスの霊(聖霊)です。
2017年5月21日(日)
「イエスの祈り」
初期のキリスト教は、ユダヤ教のよい習慣を引き継いでます。
宗教的行為としての三つの仕来り(施し、祈り、断食)を批判しているわけではありませんが、その守り方、仕方、態度に問題を感じていたようです。
貧しい人に施しをするにしても、個人的な祈りにしても、また断食をいかにも守っているという態度で、信仰の対象が神ではなく、人間になってしまっています。
隠れたところを見ておられ神が対象でなく、人間です。
いいところを見せていかにも信仰深い宗教的に立派であるかを見せる、一種の立ち振る舞い方にその姿勢があり、対象は、人間であって神ではありません。
とんでもないすり替えをしています。
これこそ偽善なのです。
彼らはすでに報いを受けてしまっています。
この社会は、悪でも集団の利益になるのであれば正当としてしまう態度、すり替えがあります。
そのようなすり替えをして正しさを主張する人がいます。
これが偽善なのです。
それに気がつかなく強いものに巻き込まれていく人間の弱さがあります。
イエスは、災いだと叫びます。
 十字架の死にならずに、ユダヤ教の会堂の中でイエスが続けていたら、おそらく「主の祈り」は、ユダヤ教の会堂でも安息日ごとに唱和されていたに違いありません。
それほどの価値ある祈りです。
2017年5月14日(日)
「道なるイエス」
道とは、誰もがそこを通らねばならない道路のような通路です。
具体的に優しく語るイエスの言葉は、荘厳に響くよりもソフトに穏やかに心に沁みこんでくる言葉です。
当時の神信仰、神観念、偶像的信仰に、イエスは釘を刺し、人間の救いが、着飾った人間、華やかな人間、近づきがたき人間、位やランクによって格差を生み出して自己満足に陥り、閉塞状態になっている社会の壁に風通しを良くして、誰もが過ごしやすい新鮮な空気のようなさわやかさをもたらすイエスの救いです。
イエスとともに歩むとき、そこに道ができ真理が見出され、命が与えられるのです。
なぜなら道になられたからです。
道とは、手立て、方法、仕方の事を言うこともあります。
この道こそ、基礎である。
信仰の基礎を失ったら、がたがたです。
自己崩壊します。
2017年5月7日(日)
「わたしはよみがえりであり、命である」
 死んだ人が蘇る(復活する)という言葉は、言葉だけのこととして、我々は脇へそらしてしまいやすい。
マルタ・マリヤ姉妹も「終わりの日の蘇り」つまり終末の時の復活は、信じていたようですが、現在、この時に復活するということは、関係ないかのように振舞っていたようです。
イエスが奇跡をもたらす方であることはわかっていましたが、ラザロは死んで墓に葬られ4日経つていましたので。
イエスの存在がチャンスを逸したかのように思われていました。
主は、マルタに「わたしはよみがえりであり、命である」といい、今この時、信じるかを問います。
私こそが復活だ。
終末の復活が、主によって現在化し、遠い将来のことでなく、主ご自身のうちにあることを告げています。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ローマ書6:11)。
十字架と復活の主である方は、現在の主であり、再臨の主でもあります。
2017年4月23日(日)
「兵卒の報告」
異邦人の兵卒から意外な事実の報告を受けて仰天したのです。
彼らにとっては、「不都合な真実」であったのでしょうか。
復活の事実はまず最初に、異邦人のローマ兵に明らかにされました。
キリストの弟子からすれば、ビックなニュースが自分たちでなく、キリストを知らない異邦人にもたらせられたことは、驚きですが、このことは隔ての中垣を超えてもたらされているのです。
本当に喜ぶべきことであります。
この事実を何とかもみ消そうと画策するユダヤ教の首謀者は、キリストとその教会を呪うようになりますが、それは神に逆らうことであり、筋が通りません。
結局は、祝福せざるを得ないことになるのです。
 歴史を振り返ると、40年後のAD70年にユダヤ教の本山であるエルサレム神殿は、ローマ軍によって破壊されてしまいました「ああ、エルサレム!」とイエス様が行く末を見て嘆いていましたが、呪いの矛先は、ユダヤ教自らに降りかかってしまったのです。
2017年4月16日(日)
「主はよみがえりぬ」
 イースターおめでとうございます。
この日、真っ先にこの喜びに与ったものは、もちろんイエスの弟子たちです。
この復活の喜びがなくては、福音伝道はできません。
復活されたイエスがまず、その喜びをあらわしたのは、女弟子のマリアでした。
なぜかそれは三日目によみがえるというイエスの約束を信じてイエスの墓までいたからです。
そしてその喜びは、弟子たち全員にさらに全世界に広がって行ったのであります。
この世界が、死の世界から復活の命の世界へと変えられていく「喜び」の出発点に与ったのです。
人間的な能力は、死の前に無力に打ち砕かれてしまいましたが、それが死によって定められた人間の限界でしたが、イエス・キリストの復活は、神的出来事であり、死の限界を定めたのです。
復活は、死を超えて、キリストの新しい復活の命に生きるものとされた我々の生の限界を無限にしき伸ばしたのです。
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」」(ヨハネ11;25)
2017年4月9日(日)
「自分を救ってみよ」
 この箇所は、「主の十字架刑」と「主の死」に分けられます。
見物人が、多くいました。
イエスの十字架を背負ったシモンもその一人です。
また敵意に満ちた兵士たちや、十字架刑につけた張本人の祭司長や律法学者と長老たち、また通りかかりの者、一緒に十字架につけられた盗賊たち、そしてガリラヤから主についてきた多くの婦人たちの6種のグループの人々がかかわっています。
イエスの様子を描写しているよりも多くの見物人たちの言動に重きを置いているような書き方です。
前半は、身動きできない主に対して敵対者は「神の子なら、自分を救ってみよ」と揶揄、嘲笑的、侮辱的言葉を浴びせ勝ち誇ったところがあります。
後半は、神への問い、主の「なぜおみすてになったのですか」というあっけない終わり方で細かい描写はしていません。
神殿の垂れ幕が裂けた、敵意に満ちた異邦人の兵士たちが、主の十字架の死に直面して、「真に、この人は神の子であった」と信仰告白しています。
イエスを主と告白できないで死に追いやったユダヤ教サンヒドリンの権力者こそが、失敗であった。
2017年4月2日(日)
「母と子」
わが子に、出世してほしいと望む親は、当たり前でしょう。
その逆はいないでしょう。
イエスの弟子もその線からは漏れなかったようですが、この世に属するのと「神の国」を目指すものとの方向がまったく逆であればそれこそ悲劇です。
弟子たちは、よくそれで弟子をやっていけるか、それでも弟子かよと訴えられそうです。
この姿は、我々を代表しています。
弟子の癖にというが、悲しいかな世俗社会にとっぷり漬かって生きているものにとって、イエスの存在は、出世コースに最適であったのです。
利用しやすくて、利用しにくいです。
つまりこちらの人間的な思いにならずに、「神の国」の運動に仕える器にさせられます。
ガリラヤの漁師が、主に従っていく中で、低レベルの出世しか考えられず、主に引かれています。
どうせ思うなら、「全世界を設ける」ほどの欲望でもいいのではないかとも思いますが、自分の命を損したら元も子もなくなります。
我々の命のためにあがないの十字架の死の道を歩む、主の姿にどれほど接近し、御姿にイミタチオしていくかが、主に従っていくイエスの弟子の課題です。
2017年3月19日(日)
「思い込み」
 主イエス・キリストの第一弟子であるペトロの信仰告白に対してイエスから「鍵の権能」が授けられたが、それを撤回するほどのイエスの譴責です。
つまり、「神の子」理解が不十分であることをペトロは、暴露してしまったのです。
彼は、旧約の古い観念から出てこない古い人間にとどまっていたのです。
「そんなことがあってはなりません」の「神の子」理解に対し、そうではなく、「そんなことがあるのだ」と主は、おっしゃるのです。
十字架の主の道です。
贖いの主の道です。
それが分からなくて、第一弟子がよく務まるな、鍵の権能など、撤回するぞといわんばかりのイエスの言い方です。
主は、告白する我々一人ひとりに「鍵の権能」を授けようとしています。
それは、メシヤ理解、キリスト理解と信仰が問われ、迫られます。
正しい信仰告白が求められています。
2017年3月12日(日)
「許されない罪」
この世においては、折角のよき業が台無しになってしまうところがあります。
まるで、テロの爆破活動のように、よいものであっても敵対するもののよき業を「殺し文句」のようにして相手を決めつけでズタズタにしてしまう破壊的な悪しき業があります。
神の言葉に反し逆らって非難し、批判する律法に秀でたファリサイ派の人々がいました。
彼らは自分たちの教えこそが間違いなく、絶対であるかのようにしてこの世に入り込んできた。
サタンのような勢力です。
 イエスは、それを聖霊に対する汚し言葉の罪である、といいます。
神の国が、イエスにおける聖霊の働きとして、人々の間に入り込んできています。
それを悪霊のわざと決め付け、非難する者は、神の国の祝福から自ら締め出していることです。
「許されざる罪」とは、聖霊を汚す言葉であり、許されません。
2017年1月1日(日)
「ナザレのイエス」
 世界と歴史を御支配なさる真実の主・救済者のイエスが。
あたかもこの世の権力者に翻弄されてるかのように、逃避行を繰り返します。
そのような最中で主なる神は、イエスの父ヨセフに指示を出して、安全な場所に身を潜めるようにします。
威勢のよい支配者は、見る間に滅び、新旧交代の激しいこの世です。
イエスの逃避行はほんのわずかの時期だけでした。
それでも、彼は「ナザレのイエス」として、一地方の一人の庶民(村人)として生きられました。
この姿は、神の子でありながらも人間に仕える謙りくだりの「神の子」の姿であり、神の国の福音を暗い世界にもたらし人間一人ひとりに福音を届けてくださいました。
イエスの明るさとこの世の暗さが逆転しているように思えます。
しかし神は一貫して筋を通し、人間世界の闇に、明るい救済の道をイエスを通して確固として示し、歩まれました。
旧約聖書の神の言、つまり予言の言が実現(成就)したことをマタイ福音書の記者は、繰り返し記し、神のご計画が間違いなく確実に進行していることを表現しています。
2016年12月24日(土)
「ひとりごなる神イエス」
 ヨハネ福音書の書き出しは、天地創造の創世記の書き出しと酷似しています。
主なる神が、改めて、三位一体の第二位格の神の子(子なる神)と協働して,御子イエス・キリスト通して、創造の業に参与し、人間を救済する業にかかわろうとして、始めました。
言は神であった。
ヨハネの登場は、、罪人である我々の代表者の如く、その人生を通して、キリストを証し、忽然と消えていきました。
自らを誇ろうとせず、黙々と主の業に励んでいく姿が描かれています。
我々もまた、ただ言葉として声として、この荒々しい世に向かって、主の救いの証を言い表していく務めがあります。
 我々のどのような小さな業の中にも、三位一体の神の働きがあります。
隠されています。
神は我々を用いてくださっておられます。
学歴、地位、職種、富、貧関係なく、それらを超えて主の業が進められています。
 クリスマスにあって、イエス・キリストを信じる限り、誰一人もれなく、イエスの系図の中に組み込まれているのです。
2016年12月11日(日)
「わたしにつまずかない人は幸いだ」
ヨハネが獄中で、イエスにつまずくことはないと思います。
「来るべき方はあなたですか」の質問は、バプテスマのヨハネ以後の方向性を見定めるためのヨハネの弟子集団からのイエスの弟子集団への前後策の打診であります。
それに対してイエスは、福音の事実を知らせています。
信じられなければ、そこに「つまずき」が起こります。
その「つまずき」の原因は、当人の心の姿勢にあります。
自己義認・自己正当化からもたらされる「つまずき」です。
つまりそれは、自分で自分を救おうとする者に起こります。
このイエスへの「つまずき」は、救いにかかわり、命にかかわります。
「わたしにつまずかない人は幸いだ」
 当時の世相は、笛吹けど踊らず、でした。
ヨハネにも、イエスにも同じような態度で、どっち付かず今日の世も同じです。
態度保留して、流れに任せている感じですが、その流れは、よい方向には行きません。
つまり、そこに信仰がなければ、「つまずく」のです。
その「つまずき」は、大きく、自らの進退を左右し、都合のよい方に流されます。
2016年12月4日(日)
「ナザレへの思い」
誰にでも経験することでしょう。
ことの大小はさておき、事柄が自分の思うようにいかず、はかどらない。
挫折、失敗、行き詰まり、などです。
 私たちの主も、宣教において、自分の郷里で失敗し、挫折しております。
生まれ育った郷里だからといって油断していたわけではありません。
以前のような幼いころ、少年のころのイエスと、成人して神の御用のために福音、宣教するイエスです。
立場や物の言い方あるいは、物腰動作など、まったく変わって以前のような親しみ深く、気軽さが消し飛んでしまい、厳しいところがあったに違いありません。
「大工の子」が、という言い方は、少し言い過ぎる嫌いがあります。
当時、ユダヤでは、誰でも手に職を持つことになっていました。
それは自立であり、世俗的、社会的役割、奉仕活動として尊ばれていました。
パウロは天幕造りでした。
自分の職に対して誇りがあったはず、だからこのような言い方は少し差別的、で、どこか日本人の言い方と似ています。
「大工の分際で」「大工のくせに」とか言う台詞に似ています。
以前の彼と違う、それは「御言葉と聖霊に」満たされていたからです。
それに躓(つまず)いたのです。
2016年11月27日(日)
「思いがけないときに」
 世の終わりが、何時来るのか、私たちはわかりません。
知らなくてもよいのでしょう。
知ったところで、何ができるのでしょうか。
ここでは、父なる神だけが、その時を知っているとなっています。
御子である「人の子」さえ、そのことに関知してない。
つまり十字架のイエスさえ、このときを知らないのです。
イエスが再臨するときも、本人自身が、その時を知らないのです。
世の終わりのときには、イエスは、人間の側に自らの立場を置いておられるのでしょう。
だから私たちは知らなくてよいのです。
 思いがけない時に、「人の子」が来られるということですので、全く予測、推測、知見できず、期待も予知も適用されないで、日常的な生活の中で、このことが起こるのです。
ただ、そのときに備えておきなさい。
と警告が出ています。
備えておきなさいといわれても、防災訓練のようなことなら多少はできても、全能の神の関与の下での、世の終わりよい知恵を模索する必要もないのではないでしょうか。
いつものように、一人も滅びないように信仰生活に、主の業に励む以外にありません。
2016年11月20日(日)
「これらの最も小さいものの一人に」
 今日の聖書は、審判の主イエスが、私たちの実生活の心の底までも見ていらっしゃるということでしょう。
ビデオカメラに監視され、いつ何をしたなどと記録されていたならば、この審判に誰が耐え得るでしょうか。
明暗、灰色さまざまな生活の場面が走馬灯のように目まぐるしく変わり、本当の自分がわからなくなってしまいます。
「主よ」という祈りの言葉がいつの間にか口ずさむほどになります。
私達の意識外(潜在意識)の所で判断されているようですからお任せしたらよいと思います。
信仰のあるなしでなく、あつてもなくても、意識外のところで審判されていたら、これたまらないとも思います。
しかし、神の霊は、その意識外のところまで到達し導き潜在意識でも清める力があることです。
よく私達は、瞬間的にそれこそ無意識に一瞬のうちにやってしまうことがあります。
無意識は、怖いです。
ある意味では意識外ですから仕方のないことかもしれません。
怖いのは、そのようなときほど暴言・行動してしまうことです。
無意識に裁いている。
潜在意識も自分です、他人では決してありません。
主の福音(救い)はそこまで行き届いています。
2016年10月23日(日)
「イエスの祈り」
イエスは、よく祈られました。
4つの福音書すべてにわたって活動以上によく祈っています。
その目的は、神の国のためです。
宣教のためです。
その意味は、主なる神との交わりを通して御心と一つになることです。
標的や目標が近いほど祈りは必要です。
的外れにならないためです。
絶えず祈りなさいと。
また多くの弟子たち・教会のためです。
イエスと神との一致を絶えず求められますが、それと同程度にイエスは、ご自分との弟子たちの距離を気にしています。
三位一体の一つの神として一つであることは重大です。
神の愛とイエスの愛は一つで同じです。
しかし、その愛は、イエスに従っていく我々弟子たちにも要求される愛です。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」同時に、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」です。
私たちの愛と神の愛が同じものになることです。
これは三位一体の中に我々人間も入ることのできる唯一の関係です。
神は、我々に関係を求めます。
そして隣人への関係も求めます。
なぜなら命を得たいからです。
永遠の命を得たいからです。
愛の内容は同じであっても我々が愛する行為は、神から愛されているから出る行為です。
神は、我々人間に愛されたくてするのではありません。
創造主としての神は、すべてにわたって関わりたいのです。
信仰共同体の課題は、一つになること、ないし一つであることに宣教の課題がある。
2016年10月9日(日)
「イエス殺害計画」
宗教的権力者が、独りの偉大な神の人、イエス・キリストを抹殺しようとした計画的犯行です。
暗殺ではなく、公に合法的に会議を通してユダヤ教の最高決議機関であるサンヒドリンが、決定を下したのです。
この操作をあやったのは、時の最高宗教指導者である大祭司カイァファ(前聖書ではカヤパと言われ、馴染があります)の提案で、この計画は実行されました。
人間を救わねばならない立場の者が、政治的に邪魔で抹殺計画に加担しています。
人権感覚の貧しいものの犯行です。
イエスを抹殺することで自らの安泰を図った権力者は、70年後、恐れられていたローマ軍団の手によって「ああ、エルサレム!エルサレム!」とイエスが嘆いたとおりのことが抹殺したものたちの上に下り、ユダヤ教とエルサレム神殿は完膚なきまでに蹂躙され、崩壊、離散されました。
 神のご計画は、反逆するような者をも用い、神の御手が働き、「イエス殺害計画」を人間の救いのために、反逆する者をあえて用いて現実(成就)のものとします。
神の手中にある人間の反逆計画。
すべて見通し済み。
2016年10月2日(日)
「ヨブの悔い改め」
ウズの地(中近東)に、主なる神がほめるほどの信仰深き豊かな生活をしていたヨブがいました。
神に対抗するサタン(悪魔)は、神のほめ言葉を揶揄し、ヨブを陥れようと試し、病気、災い、不幸を立て続けて起こします。
神が褒めるほどの人物であるヨブは、微動だにしません。
むしろ塵・灰をかぶり自らを低くし「悔い改め」ております。
友人三人は、尤もらしい忠告をします。
忠告というより辛らつな意見・中傷です。
このような友人がよくもいたものだとあきれます。
イエスの弟子もある時、「生まれつき盲人に対してこうなったのは誰のせいですか、本人ですか、両親ですか。
このような問いは、針の筵に座らせられて上から重石を乗せてられるほどの批判・中傷です。
同情とは思えません。
原因探しです。
これは悲しみに寄り添う歩みとは違います。
アブラハムはソドム、ゴモラの救いのために塵・灰をかぶりとりなしています。
神の像としての人間が、塵灰に過ぎない「悔い改め」の中に、ヨブに寄り添うように神は寄り添っています。
この人に「神の業が表れるためである」とイエス答えられた。
ヨハネ9:3
2016年9月18日(日)
「ラザロの死」
「この病気は死でおわるものではない」とイエスは語られました。
従ってなお、二日間も同じところに滞在して、もう一度ユダヤに行こうと言います。
弟子らは、石打の刑を恐れて、イエスに警告しています。
イエスは、まだその時でない「神の御旨」ではないといって、ユダヤへと向かおうとします。
神の御心を優先させています。
 それにしても「この病」は死で終わるものではない」とは、この表現では、死んでも病がまだ連続して続いているようにも受け取れます。
昔の訳ですと「死ぬほどのものではない」となっていますから、この病では死なないのだと判断してしまいます。
 命あってのものです、とよく言われます、命の限界が、死であるように受け止められます。
イエスは、死こそが、神によって限定ずけられている。
と言っています。
死の限界こそが、神によって制限されています。
創造の神は、人間を主人と僕、いわゆる上下の関係としてでなく、神の像に創造し、似せて造られた。
とは人格的応答関係として人間を創造しました。
それをイエスは「友」と言っています。
ラザロが如何なる人物かはわかりません。
イエスから友と呼ばれる存在です。
我々も主の友として行動いたしましょう。
本当の命は、神との応答関係にあることです。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
ヨハネ11:25
2016年9月11日(日)
「わたしの声を聞き分ける」
時は、仮庵の祭りから二ヶ月後の12月ころに守られる、宮きよめの祭り、「ハヌツカ」(新築の落成、修築というの意味)です。
歴史的にはアンチオコス・エピファネス帝の支配による神殿の異教化に対するユダ・マカベウスによるエルサレム神殿の聖別し、新しい祭壇を築き奉献したことを神殿奉献記念祭として、BC165年に行い、これを「光の祭り」と呼び救いと1対になって使われた。
この祭りは公ではなく、各自でこの祭りを祝った。
「世の光」としての主イエスこそ、この祭りの主です。
しかし、彼らは敵意を持って近づき、認めず、信ぜず、メシアを敵視、抹殺しようとしていた。
言葉のミスをとらえようとして主を試した。
それは「わたしの羊でないからである」。
 主イエスとユダヤ人との嫌悪の最中でありながら、我々は、生来、信仰を持っておらず、相応しくないが、賜物として信仰をキリストから与えられたのです。
主についていくのは、いのちを与えられ、交わりを持ち、時には友として、さらに、仕える者として、生命を与え、救い主として交わり、決定的にキリストが罪びとである我々と関わりを持とうと決意し、実行したからです。
もともと聞き分ける能力がなかったが、主との交わりによって声の識別の能力を与えられた。
つまり恵まれ祝されたのです。
感謝。
2016年9月4日(日)
「わたしは良い羊飼い」
 パレスチナの羊飼いは、自分の命を張って羊を守らねばなりませんでした。
ぐずぐずしていれば、奪われ、殺され、失います。
このようにおっしゃるのは、他ならぬイエス御自身です。
彼は信仰者にまことの羊飼いとしておいでくださり。
道をはずし、迷いやすい者を信仰から信仰へと私どもの歩みを確かなものとして導きます。
迷わば尋ね道を示します。
すべてが命がけです。
生半可ではありません。
片手までなく、全身全霊をもって人間を救おうとされている者の姿です。
「わたしこそ良い羊飼いである」「わたしのほかに良い羊飼いはいない」とまで言い切るイエスの意気込みです。
熱意です。
この世に責任を持って臨む救い主の姿勢です。
私より前に来た羊飼い(この場合は指導者)は、偽者であり、盗賊である。
と警告しています。
正しい指導者でなかった。
私欲のための指導者であった。
2016年8月21日(日)
「イエス様はわたしたちの平和」
 8月は戦争の悲惨さのみならず、特に「平和」について考えさせられる時期です。
日本キリスト教団では、1962年に、8月第一日曜を「平和聖日」と制定し、聖書から「平和」について考えを深めてきました。
きょうの聖書箇所には「実に、キリストはわたしたちの平和であります」とあります。
イエスの平和は「やられても、決してやり返さない」という「絶対平和主義」です。
イエスの十字架のそのみ姿がそれを現しています。
主イエスはそのようにして、つまり「ご自分の肉において」「敵意という隔ての壁を取り壊し」たのです。
それは「和解」された関係、「ゆるし」「ゆるされた」関係ともいえます。
「平和」について考える時、それは確かにマイノリティー(少数派)であるかもしれません。
しかし、これからの世界を、社会を考える時、主イエスのそうした「平和主義」にこだわっていかなければ、人類は破滅へと向かう他ないでしょう。
「キリストはわたしたちの平和」。
教会はそしてわたしたちキリスト者は、即効性はなくても、しかし戦争を起こそうとする力に抗して、地道に平和を築いていく勇気と希望を主イエスからいただいて、主イエスと共に平和を築いていきたいと思います。
2016年8月14日(日)
「わたしもあなたを罪に定めない」
律法主義者や、パリサイ人は、人を生きずらくしています。
人を陥れ、殺すことにたけています。
イエス・キリストと全く反対の立場にあります。
彼らは法の番人のくせに、本来の番人はせず、ユダヤ社会は混乱させています。
法を生かして人をも生かす働きをしていません。
キリストのもたらした福音は人も法も活かします。
 イエスの許しの言葉は、全人類に鳴り響きます。
なぜなら、イエスの罪の許しは、この女性だけのものではありません。
「あなたは今日私とともにパラダイスにいるであろう」とともにつけられた囚人に約束したことは、十字架上から人類に向かって宣言していることです。
人を決めつけ陥れるものには、このイエスの言葉に躓きます。
イエスの宣言は、今も有効に鳴り響き地の果てまでも、世の終わりまでも届く人を活かす福音です。
2016年7月31日(日)
「神の言葉はわが足の灯・光」
 私たち人間の一生、つまり誕生したその日から最期のその日まで、常に楽しく、幸せな日々であればこんなに楽(?)なことはないのですが、そのような一生を過ごせる人はまず無いでしょう。
人の一生には、順風満帆な時もありましょうが、苦しいことが続くこともあります。
また、自分の考えるように事が運ばず、忍耐を強いられ、心を乱す時もあります。
そのような時の対処の仕方は人それぞれでしょう。
きょうの聖書の言葉は、聖書の神を信ずる一人の信仰者の晩年の祈りです。
彼は若い時から、人生の歩みの土台に、神の言葉、すなわち「み言葉に従う」という一事を据えました。
その119篇は176行という長い祈りです。
そこには苦しい時の心情を吐露している言葉も幾つかあります。
しかし、そういう時でも彼は「バチが当たった」と言う一言で、神の言葉に従う事をやめ、信仰を捨てることはありませんでした。
一生を通して、み言葉によって慰められ、力づけられ、生かされて来たことを、感謝と感動をもって、私たちに今も伝えています。
「神の言葉はわが足の灯・光」と。
2016年7月24日(日)
「イエスを食べる」
これは主を信じたものにしか許されない行為です。
イエスは人間の基本的な衣食住にあわせたかのようにして、「食」に関して人と同じようになられた。
しかも、人間に連体します。
イエスが人間と連帯してくれなければ、人間は、霊的に生きていけないのです。
キリストの体に与って一致し、同じ救いにともに与ることです。
キリストにある交わり、神との交わりとキリストにあって一つの体となる。
聖餐は、神によって定められた神との交わりの手段です。
またキリストのからだに繋がる仲間の肢体との交わりの手段であるから、それは救いに欠かせない手段なのです。
聖餐は、キリスト教共同体を構成する本質的なもので
あって、聖餐の存在しないところにキリストの教会は存在しない。
2016年7月17日(日)
「永遠のマナ」
 昔からある格言のような言葉に、「衣食足りて礼節を知る」。
穏やかなこの国では言えるのかも知れません。
飢餓や貧しさに生活を追われている地域では通用しない面もあります。
むしろ、この逆でこの国では「衣食足りても」礼節を守れない、経済優先主義に陥り、パンのために稼ぐ傾向です。
いってみれば、「金銀のために働くこと」です。
一般的な世相ではそれで通用するかもしれません。
しかし、主イエスは、働く事と、奉仕することにおいて、経済のために働くよりも、人としてより大切な事を訴えております。
人が癒され、安心し、慰められ、落ち着いて生活できることは、経済だけでは済まされません。
まず「神の国」を求めよと、ヨハネ福音書以外ではいっています。
「永遠の命」のためにイコール「神の国」です。
ローマ帝国に支配され、奴隷制度と人身売買が横行する当時の世にあって主イエスの福音は、当時の社会制度を超えて、いわゆる人権であり、神権の戦いです。
人として生きるべき本当の価値を表しています。
「永遠のマナ」とは、主イエスです。
神の招きの中に、人の奉仕の業=労働が三位一体の中に生かされ、神とひとつになっていく気持ちのよい労働であり、奉仕ではないでしょうか。
2016年7月10日(日)
「恐れることはない」
 意気ようようと弟子たちだけで舟で対岸のカペナウムを目指して帰ろうとしましたが、この日に限って、舟は嵐に遭遇し、悪戦苦闘を強いられました。
主イエスの不在の舟です。
イエスは、一人退いて山に登り祈られました。
伝道の成功とか集会の成功の次にやってくる問題は、成功に隠されて心の隙に入ってくる問題です。
絶えず祈られた主イエスの姿勢と弟子たちの姿勢が違っていました。
嵐の湖で舟が転覆し、全員おぼれてしまっていたらそれこそ伝道どころではなくなります。
失敗です。
どれ程事柄が巧くいき調子がよくても、イエスのように祈りが必要なのです。
うかつな弟子たちに対して、主はとがめることなく、漕ぎ悩んでいる弟子たちの舟に近づき助けます。
遠く離れていても、主イエスは弟子たちの行動・悩みを把握しています。
恐怖に慄く彼らにとっては、湖上のイエスの姿には、「幽霊」と見まちがえ動揺し、土壇場で切羽詰まったとき、嵐に向かって「静まれ黙れ」でなく、弟子たちに「わたしだ、恐れるな」は、弟子たちへの安心・安らぎ以上に、主の存在は救いをもたらす「しるし」なのではないでないでしょうか。
2016年7月3日(日)
「イエスの権威」
 我々の生き方は、人からの評価を気にします。
だから密かな行動ができにくいことです。
人は、中身のないにもかかわらず権威や権力をかさに自らの能力のようにひけらかすようです。
しかし、神の思いを荷ったイエスは、癒しなどの奇跡を行うにしても、そのやり方は、控えめというか、おおぴらでなく、密かにやっています。
水をブドウ酒に変えられたカナの奇跡、や役人の息子を癒すにしても密かです。
なぜなのか、自分でなく、主なる神を分かっていただくためでした。
私の父は今も働いておられる、と労働厳禁の安息日でも癒しの奇跡を行って神の愛を言い表したが、誤解され、十字架の死へと創造的に人生を歩まれた。
『あんたは良くなった」は、癒し主のイエスが、救済者・審判者・権威者として偽権威に凝り固まっているユダヤ教パリサイ人の生き方を創造的に越えてその誇りを打ち砕いています。
2016年6月26日(日)
「歓喜する神」
 イエス様に贖われた私たち主を礼拝するものは、このことを自覚していなけねばならないと思います。
というのも、私たちが信じている神は、ペトロが?をついてもじっと彼を見つめる主のまなざしに驚きます。
うのぼれている人間に、自己自身の根の浅さや軽はずみな自らの罪にきずかされて許しの神の愛に出会い、人間が裏切ることを、とっくにわかっていて見通しずみで、その場の勢いとか、感情に流され?をついていても、真実な主は、個人個人を覚えてくださり、じっとたちなをるのを待っておられます。
預言者ホセアの主も度々裏切るイスラエルの民を慰め癒し救い上げておられます。
我々救われたものの喜びは、主がともに喜んで下さって、礼拝を礼拝たらしめ、恵もうとするものを恵むのです。
これは主の証が、歴史を通して証明されています。
悔い改めて主に立ち返るものの上に注がれる豊かな神の愛(祝福)を感じないでしょうか。
我々が喜び歓喜する以上に、主が礼拝者とともに歓喜しておられるのです。
愛の主が救われたものと共に、あるからです。
2016年6月19日(日)
「人の思いと神の思い」
ヨナ書は、旧約聖書中で、特別です。
多くの予言者は、神の思いをたずさえて御言葉を民衆に伝えます。
預言者の任務です。
託されたことを行うのが預言者の仕事です。
しかし、預言者ヨナは、神のご委託に答えようとせず、逆らって逃げだしています。
同属の救いならば良かったのでしょう。
異邦人の町の救いに神から託されましたが、あのような町は滅びてしまえばよいと思い上がり、民族主義的な国粋主義のような考えで行動しました。
しかし大きな魚に食べられてその腹の中で悔い改めて、神のご委託に答えます。
そして神の思いをヨナが語りだすと、ニネベの人たちは王様から下々にいたるまで、悔い改めたとあります。
彼の宣教は神の思いを込めて宣教したとは思えません。
仕方無しに適当に述べたのです。
何と力のない、だらしのない御言葉の取り次ぎでしょう。
しかし、町の人々は、全員悔い改めたと言っています。
ヨナをはじめとしてしばしば、神の思いより自分の思いを先行(優先)させ失敗します。
神の民である教会は、世の民の中に遣わされています。
神が世を愛するがゆえに神の民である教会がそこに存在(仕える)するのです。
しばしば世と教会が拮抗することがありますが、常に神の思いを優先させて歩みたいものです。
2016年6月12日(日)
「同じ洗礼を受けた方」
 キリスト教について、あるいはキリスト教会について知らない人から「ここで皆さんが信じているものとは、いったい何ですか」と聞かれたら何と答えるでしょうか。
マルコによる福音書を書いたマルコは「私と同じように洗礼をお受けになったイエスという方です」と答えています。
マルコはそのような信仰をもって、神の子イエスをここで紹介しています。
洗礼とは、罪ある者に施される儀式です。
ということは、神の子が罪ある人間と同じになられたのです。
それは、罪ある人間の社会に起こってくる、私たちの悲しみ、苦しみ、痛みそして喜びをつぶさに味わうだけでなく、そこから真の平和とは何か、人間の真の幸せとは何かをリアルにわかって下さることを意味します。
そして、人々が滅ぼされないで生かされるための道を示してくださいました。
そして今も、そのイエスの復活を信じる者に希望を与え続けています。
このイエスを指して言われた「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」との天から聞こえた言葉はそのことを意味します。
イエス様が私たち罪人のひとりになることを、愛を持って受け入れて下さった方であることをしっかりと受け止め、感謝と共に、イエス様に従い生きるものでありたいと思います。
2016年5月29日(日)
「わたしは既に世に勝っている」
イエスは、我々罪人の不安な心に、静かに、落ち着きの心、安定した平和を与えてくださいます。
我々が、イエス・キリストに出会って安定させられること、心穏やかにおちついていることが求められ、とても大切なことです。
イエスにあって、我々は神のそばに、見捨てられずに、いることができるようにしてくださった。
これは、すべての人に必要なことです。
大人も子どものです。
子どもが親に抱っこされている時ほど、落ち着いていることができます。
同様に、イエスにあって、我々は神のそば近くにいることが赦され、落ち着くのです。
 勝・負けというとすぐにゲームを連想します。
ゲームでの勝とは全く違います。
このようなゲームでは、どちらにしても、心穏やかではありません。
イエスが勝ったのは、私ども人間を不安にし、迷い子にし、宇宙の孤児のようにしてしまう諸々の霊力に対して、「イエスは既に勝った」と宣言します。
神の目的にあった勝ち方をしています。
神の目的にあったやり方こそ「勝利」です。
しかも十字架の上から「勝った」と言ってくださっています。
我々のための勝利宣言です。
2016年5月15日(日)
「伝達の問題」を超えて
今日ほどメディア(情報)の世界が発達している時代はないと思われます。
「言葉」伝達力は、抜群です。便利です。
しかしその便利さが、しばしば問題となることです。
今の世界は「言葉」が破れている世界です。
気をつけないととんでもないところに引きずり込まれます。
言葉が独り歩きし、勝手な方向に行ってしまう。
もう止められない、なんていうことはしばしばです。
制しにくい悪であると、いっています。
これは人間が創造の主から戴いた他の生物にはない特技です。
自由に使えて良いのですが、しばしば大言壮語して言葉の質を下げてしまいます。
聖霊は萎えた心を癒し慰め勇気を与え、言葉に勝利の力をもたらします。
ダビデが、ゴリアテを、リンカーンの演説、キングの[私には夢がある」等々、言葉によって勝利を収めています。
これ聖霊の力です。
ペンテコステ(聖霊降臨日)に何が起こったのか、弟子たちに宣教の勇気を与えました。
2016年5月8日(日)
「生ける水が川となって」
 神殿警察が、イエスを捕らえようと警戒している中での発言です。
時は、仮庵の祭り最中、荒野で神から与えられた水(生きた水)と古くからある農耕生活には欠かせない、雨乞いの祭りと結合し同化された。
仮庵祭と関連して水注ぎが行われていた。
祭りのたけなわのころ、「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れる」とイエスは言われた、これは4章のサマリアの女性に対して言われたことばと同じです。
神殿が回復されて命の水が流れ出る、イエス御自身が神の臨在の場となって仮庵祭を凌駕することで、命の水である聖霊が、信じる者全員に付与され、更に溢れる。
生きた水によって、すべてが命を与えられ慰められ強められ力を受けて生きた水が川となって流れ出す。
聖霊が川のように流れ出す。
と言うことです。
イエスの霊が、聖霊が命を与えてくださるのです。
これが今もイエスの時です。
2016年4月24日(日)
「イエスは立ち止まった」
 聖書の記録をみますと、イエスと言う方が、病人や貧しさの中に苦しんでいる人々を癒し、助けたことが多く出てきます。
ここに、バルテマイという盲人が道端で物乞いをしていました。
人の思いに依存してしか生きられない生活。
しかし、彼はそれで一生を終わるのでなく、尊厳ある一人の人間として生きたいという思いがありました。
イエスに出会うことによってそれがかなえられると信じていました。
つまり、イエスを救い主として信じ、信頼していました。
イエスが自分の住んでいる町に来たとき、彼は心の底から、本音で、本気で、まわりの人々の制止にも拘らず、イエスに向かって叫びました。
声をあげたのです。
「私を憐れんでください」と。
その声にイエスは立ち止まりました。
そして、盲人の本音をじっくり聞いて下さり、癒してくださいました。
この盲人の本心から出る叫びに、イエスが立ち止まったことから、この盲人の暗闇の壁が破られ、尊厳ある一人の人間として生きられる道が開かれたのです。
イエスと言う方はそういうお方です。
信じて歩みましょう。
2016年4月17日(日)
「牧会者の使命」
 復活のイエスが、ペトロに現した場面です。
イエスは、裏切りを糾弾し裁いているわけでもないのですが、同じ問を問われて使徒ペトロは心を痛めたようです。
あなたは何もかもご存知です。
御心に反するような振る舞いをしてしまう我々の人間的な罪の問題をイエスは何もかも知った上で、委ねています。
多く赦されたものほど、多く愛する者となる。
「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望みすべてを耐える」最も大いなるものは、愛である。
復活のイエスは、ペトロを牧者として立て、「汝、われを愛するか」と問う、これが牧会の職の基本です。
そしてその愛は、具体的な助けとして実現されます。
その具体性は、主と同じように羊のために命を捨てねばならない。
誰の眼から見てもこのような使命に不適格者な者ですが、復活の主は、このような不適格者をして己の愛を真実に告白せしめ、崇高な職責を全うさせることのできる御方なのです。
2016年4月10日(日)
「さあ、朝の食事をしなさい」
 断食の最中に漁に行く、暇つぶしと言うのか、目的喪失の弟子たちは、手持ち無沙汰で、持て余しているのでしょうか、危ないときです。
このようなときこそ何もせずに、ただ、ひたすら祈るしかないはずです。
が、彼らは何を思ったのか、ペトロの発案で他の仲間の弟子たちもそれに習い湖に漁に出かけます。
気の進まぬ仕事にありがちな、一中夜通し漁をして何もとれずに明け方になり、帰ろうとすると、岸辺から「子たちよ、何か食べるものがあるか」の声、返事の仕様がなく、「ありません」とやっと答えると。
すかさず、指示があります。
「船の右に網を打ちなさい、と。
そうすればとれるはずだ」との指示に従
がうと、おびただしい魚がかかります。
我々は、漁の網をどのように扱ってよいものやらわかりません。
主の言われたとおりに指示に従うときに153匹の大量の収穫があります。
漁の疲れを覚えて休みたい弟子たちに、復活の主は休ませずに、「さあ、朝食を取りなさい」と主自身の手料理をもって、断食の終わりを宣言し、気力を取り直します。
課題を担い、十字架の挫折から、復活の命による「世界伝道へ」と道が開かれたのです。
2016年4月3日(日)
「見ないで信じる者」
 主イエス・キリストの復活の証人には、二つのタイプがあった。
目撃証人と、真理証人です。
現場で現実に出会った事柄を証するもののことを目撃証人といい。
それ以外で、出会ったことなく、ただ聞いた事柄を信じて証人となる真理証人です。
裁判の法廷で重んじられるのは目撃証人であります。
信仰の証言としては、目撃、現場証人(言)も大切ですが、現場にいない者にとっては、どうすることもできない事柄であり、現場は動かしがたい証言ということです。
トマスの証人は、目撃証人としての弟子仲間からもれてしまった焦りからか、極めて真面目な様子です。
イエスに対する真理に疑問を持った者です。
その様な疑問の中にイエスが現れたのです。
だから疑問もってはいけないとか、否定の意味ではないのです。
但し、イエスは「見ないで信じなさい」と言っています。
見るとか触ることによる信じ型は、人間の側の五感に頼った体験したことに重点があり、体験できない者には、証言ができない限界があり、その信じ方には自らの信じる対象をいつの間にか自らの枠の中に限定(界)してしまうことです。
真理証人は、イエスの証言である御言葉を信じ、復活の証言を信じていくことであります。
イエスは、「見ないで信じる」信仰に重きをおきました。
何時までも存続する信仰です。
2016年3月27日(日)
「希望が生まれた日・イースター」
 最近、街やショッピングセンターを歩いていると「イースター」という言葉に出会います。
「イースター」。
これは私たち人間への神様からの祝福の言葉、出来事です。
救い主イエス・キリストが死よりよみがえった(復活した)ことは約2千年前の出来事です。
そのイエスは今も私たちの中に生き続け、私たちが今まで抱えてきた汚れ、痛み、不安、迷いなどの闇を吹き払い、生きる希望をもたらせて下さるのです。
「死んだ者がよみがえる・復活」という事は人間にとって想定外の出来事、経験したことのないことです。
今でも「イエスが復活した」と聞いてもいぶかしがり、信ずることのできない人々は多勢いま
す。
約2千年前の人々の多くも「たわごととしか思わなかった」と聖書は伝えています。
にもかかわらず、復活のイエス・キリストに出会った人々、これもまた多数あるのです。
だからこそ、全世界の教会はこの2千年間、イースターを喜びの日として祝い続けてきたのです。
この世界は今なお絶望的なことで満ちあふれています。
しかし、私たちは復活を信じます。
真の復活を信じて新しい一歩を踏み出していくならば、この世の絶望を希望に変える事が出来る、驚くべき救いのわざが、わたしたちの周りに起こるでしょう。
2016年3月20日(日)
「エゴー・エイミ」
少し変わった主題です。
日本語に訳せば「私はある」です。
英語でアイアム(Iam)ということです。
つまり存在すると言うことです。
どこに存在するのかと言う述語部分がありません。
だからどこにでもいる存在するとも取れます。
神の存在は、その様な意味です。
どこでもと言うことで間違えるのは、どこでも=どこにもいる、いたるところにいると受け止めるから誤解するのです。
そうではなく、一見、神などいそうもない現実世界の厳しいところでも、私はいる、私はあなたと共に存在する。
と言うことです。
神の存在は、大きいです。
これはモーセが、豊かなエジプトでなく、荒野で孤独な中で体験した神の言(出エジプト3:14)であり、彼は荒野において民とともに成長した。
 神は十字架の主イエス・キリストとして私たちの傍にいてくださり、私たちの見方としていてくださいます。
神は私たちと共に歩みます。
だから私たちも「そこに存在するとき」まさにI amのときこそ、育つのです。
私がそこにいるからこそ、私はそこで育つのです。
そこに存在することは、そこで成長することなのです。
成長の必須事項は、神がそこに共にいてくださり、そこに自分がいる、存在することです。
神が居場所を備えてくださるからです。
2016年3月13日(日)
「光りあるうちに」
イエス・キリストのその死と復活を、一粒の麦の死と命に喩えて「光あるうちに歩め」と訴えます。
 古代(旧約)世界では、「光」の存在は生活を豊かにしてくれる貴重なものでした。
それは今でも変わりません。
しかし、スイッチ一つで明暗をコントロールできる現代にはこの喩えは古臭いかもしれません。
が、自然災害などで、一度失ってみてわからせられます。
旧約では、救いの光は、ユダヤ一民族的な占有でしたが、光としてこられたイエス・キリストの恵みは、今や全世界・全人類にまで共通に及んでいます。
 キリストの十字架の購いの死(一粒の麦として)と復活を通して、今や光り輝き、その中に我々は導きいれられ歩むことが許されています。
この光は、死後の黄泉の世界にまで到達する力があります。
2016年3月6日(日)
「葬りの日のために」
弟子たちは、高価な香油をイエスの足に塗ったマリアを「もったいない」と攻めています。
そのように問う前に、どうして塗るのかと言う問をマリアにしてもよいと思います。
まるでこれでは、イエスに対するマリアの思いを無視した、と言うよりも受けるイエスの思いまでも無視した批判です。
彼らの頭には「貧しい者への施ししか」なかったのでしょうか。
否、この場面に貧しい者はいません、抽象的に言うことによって、自分の立場を正当化し、一応最もな批判と取れます。
イエスがその貧しさの最中に存在することがわからないのです。
悲劇・悲惨と言うか、油注がれたメシア:キリストを貧しい者の極みとしてこられているイエスであることを見ることができないことです。
彼らには、鐚一門貧しい者への省みなどないのです。
イエスへの献げ物を貧しいものへと言う口実を設けて横領しているのです。
イエスは、マリアをカバーして「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りのために、それを取って置いたのだから」と。
2016年2月28日(日)
「あなたの“弱いところ”こそ力のみなもと」
ある大学のカウンセリングに関する15回の講義の最後に、学生たちに授業の感想を自由に書いてもらったところ、60人中10人ほどの学生が「失敗しない人になるのではなく、失敗してもそれを受け止め再出発できる人になるのが大切と語った先生の言葉が印象に残った」と書きました。
これはそれだけ現代社会は「失敗しない人であれ」と人に呪縛をかけていることを物語っています。
現代社会は「弱さ」に対しては冷ややかです。
力や強さへのまなざしは今や教育や福祉の領域にも浸食し、人々を挫折させ、虚無的にさせている現実があります。
しかし、「弱さ」ってそんなに悪いものなのでしょうか。
聖書は、弱さは決してマイナスではない。
弱さこそ苦しむ人に平安をもたらす真の源泉になる。
つまり、「弱いときにこそ、強い」というメッセージを、実例をあげてこの世に投げ返し続けています。
これによって多くの人が自分自身を取り戻し、はずみを与えられてきました。
教会は人間の弱さという重荷を下ろせるところ、また、互に弱さを受け入れあいながら、共に歩んでいく場所、ホッとできる場所なのです。
2016年2月21日(日)
「 見えるようになる」
イエスの弟子としては、ずいぶんつれない問を障がいのある方に関して言います。
人によってはつまずきます。
生まれつきとは、「母の胎にあるときから」と言うことです。
そして原因追及をして因果関係を明らかにして、責任を罪を着せます。
マイナス思考です。
一般的にはこのような考え方が多かったでしょう。
イエスは、誰のせいでもない、「ただ神の御業がこの方に現われるためである。」とプラス的に目的を持たせて答えております。
これ障がい者でなくても、普通の人にも言える言葉です。
障がいだから特別であるとは、思えません。
なぜなら、この言葉は、我々もイエス様からいただいています。
神の御業が現われるためである」と理解することはできないでしょうか。
どのような人にも、神の愛が注がれていますので、身勝手な自己中的人間の業でなく「神の御業ができる」のは、実にすばらしい。
できたのは、イエスの言葉を信じたからです。
唾が、泥が、水がその様な作用をしたのでなく、ただ、疑わず、神の御言葉を信じて実行したからできたのです。
「見えない者がみえるようになり、見える者はみえないようになる」これは、信仰において、見えると言うことであります。
パリサイ派や律法主義の学者は盲目であり、実行不可能です。
信じないからです。
2016年2月14日(日)
「神以外のものを神とする愚かさ」
私たちはサタンから何度も手痛く教育されています。
それは神以外のものを神として拝み何か得をしたと思うが、そのうち騙されたことに気づいて悔い改めが必要となります。
その前にサタン撃退法を教えています。
それは主なる神の御言葉によって退ける秘訣です。
しばし困ったときイエスのように御言葉を思い起こせません。
困ったこです。
三回のサタンの試に対して三回とも明快に聖書の言葉によってサタンを撃退しております。
これが我々に必要なことです。
三回とは完全にとか充分にと言う意味です。
御言葉が思い起こせなくても私たちには主の祈りがあります。
これで苦難を乗り越えたと言う証は何回も聞きます。
良いことです。
サタン撃退法は、聖書の御言葉による意外にありません。
だから聖書をよく読み、礼拝によく出席し、献金をよくすることです。
2016年2月7日(日)
「二匹の魚と五つのパン」
ガリラヤ湖畔の集会が終わって夕方になったが、イエスは空腹のままで帰すな、あなた方の手で養いなさいと言いました。
弟子たちは困惑したでしょう。
ここには「二匹の魚と五つのパン」しかなかったからです。
二百デナリは、弟子たちの常時たずさえていた金額でしょう。
とにかくこんなに大勢の群集(5千人以上)の飢えの責任を弟子たちに取らせようとしています。
ところがイエスは、少年の持参したお弁当の「二匹の魚と五つのパン」を感謝して祈りみんなに分け与えました、5千人が満腹し、残りのパンくずが、12籠に一杯になった。
民数記11:13[この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。]
これはモーセがウズラの大群によって飢えたイスラエルの民を満たしたあの荒野の飢饉を思い起こします。
神が飢えに苦しむ民に、天からのマナを降らせた故事に似ています。
イエスは、密かに御自分の死を想定し海からのウズラに変えて魚とパンをもって聖餐をしております。
新しい創造の奇跡です。
わたしが命のパンである。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。
これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。
父である神が、人の子を認証されたからである。」ヨハネ福音書6:27
2016年1月31日(日)
「真に恐るべき人は誰?」
何も恐れないで生きていける人は多分いないと思います。
その私たちに聖書は「人々を恐れてはならない」と言います。
そしてこう宣言します。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と。
「魂」とは「本来の生命」、人間を人間たらしめている「生命」であって、「体」というのはその「生命」の外的な現象に他ならない、と聖書は伝えています。
そして、この「本来の生命」にまで人間は手を伸ばすことは出来ないし、殺すことはできない。
できるのは、人間を創られた神さまだけだ。
だから、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方、創造主なる神を恐れなさい、信頼しなさい」と言うのです。
「神を恐れる」とは、「神を信頼する」という事と同じです。
そのためにも、まず、私たちは聖書が語る神の言葉に聞き、それを心に刻み、祈りをもって魂にまで語り掛けることのできる神との関係を断ち切ることなく生活していくことが大切です。
2016年1月24日(日)
「あがない出す」
どれほど良い解答を人に求めても、正解であっても、慰めのないヨブの信仰にマッチしない友人の忠告や批判は、分かってもらえない辛さや、悲しみが残ります。
彼は微動だにせずに神の介入を求めますが、神は、ヨブをあがなう者として、この世で慰められない者に、希望を与えます。
それは神から見放された世界と思われる陰府(黄泉)にまで神自らがおいでくださり、彼の信仰を儀としてくださる方であります。
2016年1月17日(日)
「主よ、語りたまえ」
「主よ、語りたまえ」「僕は聞きます」が、真実な信仰者の姿勢です。
神はこの態度をいつも人間に求めています。
サムエルは、三度神から呼びかけられ四度目にやっとこの言葉を神に応答しました。
いつの世でも、神は、人間がまず神の声を聴く(心で聴く)ことを求めています。
私たちの悪いところは、真剣に、熱心に心から聞こうとしないで、決まって何かをしながらといういい加減なところがあります。
それでは真剣でないことです。
全身全霊を傾けることです。
他の人は、耳鳴りぐらいにしか聞こえないでしょう。
イエス様にあってこのように幼子のように神の国を受け入れなけらば決してそこに入ることは出来ない。
2016年1月10日(日)
「神の真実を持って」
真実でない者が真実な神の御心を理解することができるでしょうか。
私たちの心は、相手次第で変わってしまう変動と動揺の多い真実さがありません。
神の真実は人間が都合で契約を破棄するようなものに対して、その誠を尽くし御心を行う方です。
神の子であり、僕であるイエス・キリストの歩み(歴史、生涯)は神の真実を表した。
神の真実は、歴史を通してイスラエルを子として歩ませ、罪の歴史に介入しキリストの救いに与る者と我々を子として下さっておられます。
2016年1月3日(日)
「受肉した姿」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
」(ヨハネ3:16)イエスのお姿は、いつどのような場合でも栄光の姿であったのではないでしょうか。
尊厳は失われることなく、馬小屋〜十字上(復活)に至るまでもその栄光の姿は変わらずに、保たれていたと思うのです。
なぜなら、現実の罪の世界に天国にいる姿のままで来られたらそれこそ近づきがたい存在となってしまい神の宣教目的(信じる)に合わないことになります。
我々も馬小屋から十字架(復活)に至るまで、イエスの姿に変えられることです。
2015年12月27日(日)
「自分の人生を生きる」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」
と言われるイエス様のもとで、まず降ろすべき重荷を降ろさせていただきましょう。
罪の重荷をイエス様のもとに降ろし、イエス様の御手から、イエス様のくびきを受け取りましょう。
礼拝から出ていけば、そこには日々の生活があります。
大変な生活かも知れません。
でも、その生活をイエス様から受け取りましょう。
人間が背負っている本当の重荷、それは罪の重荷です。
この、重荷を降ろさなくては、本当の休みはないのです。
十字架の主イエスのもとで罪の赦しにあずかり、降ろすべき重荷を降ろさせていただくならば、そこから、新しい生活が始まります。
2015年12月20日(日)
「神われらと共に」
現代日本では、出産の決定は、ほとんど100%親権によって決められています。
ヨセフーマリア御夫妻は神の御意志を尊重しています。
夢にまで見るのですから夫ヨセフは相当悩んで祈っていたことでしょう。
文面にはそのような苦悶の様子はありませんが、「ひそかに」何とか傷つけずに済ませようとしたのです。
でも夢見る人ヨセフは天使の指示に従って神の思いを優先してマリアを迎えております。
ここが信仰者の起点です。
いつの時代でも驚きです。
ビックニュースです。
この御夫妻のコミニケーション(意思の疎通)が豊かであること以上に、神との交流を絶やさず神の御心を優先して事を決定していったのです。
御心が天で行われるように地でも成就してください。
「神われらと共に』いますからです。
クリスマス万歳!
2015年12月13日(日)
「荒野で叫ぶ声」
イエス・キリストの命を頂いたキリスト教会の立ち位置は、『荒野で叫ぶ声』としてヨハネの信仰を受け継いでいます。
このヨハネの運動はヘロデの横暴により挫折したかに見えたが、復活のイエスの御遺志を継いで2000年間引き続き行ってきました。
教会はイエスを示し続けつつイエスの前を先駆けるものとして「悔い改めのバプテスマ」運動を続けてきました。
先見の目のある律法学者ガマニエルは、仲間の迫害を制してこの運動が神からのものであれば、下手をすると君たちは神を敵に回すことになると戒めています。
そこに至るまでの初代教会の血に滲むような働きがあってこそ、今日の順調な教会の歩みがあると思います。
感謝。
2015年12月6日(日)
「十字架の誉れ」
いつも、他人を批判し、貶している人々から突然「誉められ」たら、きっとどんな者でも驚くと思います。
批判者から批判されるのですから当たり前なのかもしれません。
−の−は逆に+です。
いつもほめてくれる親などから批判されれば、子供にとって慎重に受けとめざるを得ないでしょう。
いつもの方からいつものような批判なら「また」かと受け流すことにもなります。
だから「誉める」も「批判」する者も適切さが求められます。
事が宗教的・精神的・救済的な事柄に関することになりますと+、−も穏やかに済まされなくなる危険性があります。
ましてや、人の救いに関することですから、どうしようもない硬直状態に陥り命とりともなります。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる者には、神の力です。
2015年11月29日(日)
「信じて待つ―想定外の喜び」
きょうからクリスマスのアドヴェントに入ります。
その意味は「来る」、その内容は「待ち望む」です。
創造主なる神を信じる人々は、救い主が私たちの所に来るのを待ち望んだ・・・ということです。
クリスマスはその救い主イエス・キリストの誕生をお祝いするとともに、もう一度キリストがこの世に来られることを確信する出来事です。
最初のクリスマスは今から約二千年前に現実のものとなりました。
その時までイスラエルの人々は幾つもの国難の故に、苦しい生活を強いられながらも、旧約聖書に伝えられている神の言葉を信じて、その実現の日を待ったのです。
彼らは厳しい現実の中にありながらも、「信仰」という精神的支柱を心の中にしっかりと持ち続けました。
それがクリスマスへと繋がりました。
現実と神の言葉には時として大きなギャップがあります。
このギャップを埋めて下さるお方がイエス・キリストでした。
クリスマスを待ち望みつつ生活しましょう。
2015年11月22日(日)
「われらは主のもの」
この詩編は、心から賛美できないような状況にありながらも、「われらは主のもの」と告白し入場する信仰者の姿勢です。
「カイザル」ではない!このような告白を表すことは勇気がいります。
信仰が試されます。
「イエスは主なり」と告白が迫られます。
この告白は、真実な告白です。
礼拝は一つの決定的な「権力構造」を選び取ることを意味します。
礼拝は重要な社会行動です。
疎かにはできません。
しかし、人間は生まれながらに多神教的であります。
それ故、大切なことは、神の名を呼ぶ礼拝は、お一人の神を告白することであります。
主に仕えることは、人間の統治に隷属することや「神々」の力に服従することを排する法則のもとに生きることであります。
神の憐みと慈し、福音がそこにあるからこそ「イエスは主なり」と告白を持ってお仕えすることが出来るのです。
2015年11月15日(日)
「人生への祝福」
神の存在がこれほど小さく、隠されてしまったときはないと思います。
信仰がなければこのような困難を乗り越えていくことは不可能に近いことです。
1章ではイスラエルの助産婦たちの知恵と機転で乗り越えていきました、2章では異教(支配者)の王女がファラオの悪政(策)にもかかわらず、まるでそれに抗議するかのようにして、迫害のさなかの幼子を助けています。
ここでは、信仰うんうんよりも人道主義的な王女の憐みがあります。
この5人の女性は、神を畏れる恐れないを超えて神の御意志に参与しています。
ヘブルの助産婦もエジプトの王女も創造秩序における命と祝福の仲介役として奉仕しています。
このような忌まわしい時代(現代も)に遭遇すると「神は死んだ」と思えるでしょう。
見える形では神は不在のように思えるが、神の霊が我々一人一人に働き、人間を用います。
神は一見死んだように思えるかもしれませんが、隠れて,密かに目立たない存在として、我々人間に働きかけ、その業(救い)をなしています。
2015年11月8日(日)
「主の言葉による旅立ち」
安定した心地よい社会、文化、家庭の中へ、神の突然の介入です。
神の召しの言葉は、多くの人の抵抗にあうことでありましょう。
75歳のアブラハムの旅立ちは、年齢・体力・精神力などを考えれば無理な感じも致します。
しかし、聖書は、安定した豊かな生活環境にある彼に主なる神は「ここから出ていけ」と促し招きます。
この試練に彼はそこに葛藤があったとしても少しの尻ごみを見せずに、それを超えて、主の御言葉に従っていく、勇者であった。
この姿は、新約のイエス・キリストの姿に似ております。
なぜなら、『狐には穴があり、空の鳥には、ねぐらがあるが、人の子には枕するところがない」とおっしゃり、更に「私のために、家、兄弟姉妹、母、父、子…を捨てた者は…」(マルコ10:29,30)多くの人の中からアブラハムは、これを神の声として聞いて従っていったのです。
行く先に何があるかわかりませんが、神の祝福を信じ、又その祝福の源として主の声を受け入れ従ったのです。
我々もイエスの言葉を信じてその祝福(福音)に与るものとされています。
2015年11月1日(日)
「福音の力」
本日は聖徒の日で、先に神のもとへと召された信仰の先達たちを覚えてその生きざまに触れ、信仰を見上げることであります。
人類の最も解決しなければならないことは何でありましょうか。
聖書は、それは罪の問題である、とはっきり語ります。
我々人間はこのことを避けて通ることが出来ませんが、自らの力によっては解決できませんでした。
罪の力は、人間をそれに虜にし、隷属させてしまいますが、イエス・キリストの救いは、罪から解放させます。
神から与えられた律法では、人間は、罪の自覚が、与えられますが、自覚はあっても解決にはなりませんでした。
イエス・キリストの十字架の償いこそが唯一の救いの入り口であり、そこを通ってしか行けない救いの道であります。
信仰の先達たちは、自らの人生を通してその生きざまを通して証言し証しているのであります。
このお方に聞け!間違いありませんと!。
イエス・キリストこそ、福音の力であります。
2015年10月25日(日)
「あなたはとてもとても大事な存在」
今年9月の国連総会ではある画期的な宣言がなされました。
それは、「今後の国連の活動は『誰一人置き去りにしない』事を念頭に『持続可能な世界』を構築していく」というものです。
聖書の「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それはひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3:16)を思い浮かべます。
聖書全体が伝えようとしている「喜びの知らせ(福音)」を一言にまとめた言葉です。
何十億の人が生きているこの世界で、たった一人のわたしの存在にどんな意味があるのか、ふと思ったりします。
ですが、たった一人でも欠ければ、この世界はその分だけ不完全なものになってしまう。
一人一人が自分の命を精いっぱい生き続ける、その事に大きな意味がある。
この世界に存在する全てのものには、必ず意味があると聖書は伝えています。
私たち人間を創られた神にとって一人ひとりがとても大事なのです。
2015年10月18日(日)
「君がいるから、出来ることがある」
主イエスは故郷ナザレの人々の不信仰の故に、「何も奇跡を行うことが出来なかった」(5節)のでした。
この「出来ない」イエスに私達はつまずき、絶望してしまいそうです。
「神の子なのに?なんで?」と。
本当は神と、神の子である主イエスに出来ないことは何も無いのです。
ですから、神に背く人々を無理矢理にでも正すということは出来たはずです。
しかし、神はそうされず、人との交わりを望まれたのです。
人々の願いや祈りという相互の関係を求められた。
私はどこまで神は、主イエスを低くされるのだろうと思います。
その徹底された神の愛に畏れを抱くばかりです。
つまり、出来ないことなど何も無い神は主イエスに「出来ない」を与えたということです。
どうして、イエスがこのナザレで「何もできなかった」か。
それは、小さく弱い人間が救いを必要としていなかったからです。
人がその場所にあって生き、神を祈り求めることで、主イエスは初めて神の国という救いと愛を届けることが出来る。
そのような関係性がそこにはあるのです。
私達にとって神様とイエス様が居てくれないと困るように、神さまもこんな私達が居ないと困るということです。
それが神の愛。
神は、そうやって小さく、弱くそして愚かなこんな私達を愛し、大切に思い、「あなたが必要だ」と伝えるために、主イエスを何処までも低くされている。
「出来ない」を与えている。
つまり、『実は君が居ないとダメなんだ、私にとってあなたが必要なんだ。大切なんだ」と。
「君という存在が居てくれるから、私は福音を救いを届けることが出来る」と。
だから、この「出来ないイエス」にこそ希望が、神の愛が燦々と輝いていると信じ感謝したいと思います。
2015年10月11日(日)
「神の御支配」
イエスの宣教の主題は「神の国」です。
御国を来たらせたまえ、と主の祈りにもありますように私どもの祈りでもあります。
でもこの神の国は、帝国的な諸々の地上の国とは雲泥の違いであります。
政治的な概念だけで理解されやすいところです。
圧政や、抑圧、人々を隷属させるような帝国権力(軍事力)によって人を支配するところから解放されて神の御支配される本当の国(贖罪の国)を望みます。
「神の国は実にあなた方の中にある」は単なる領域的空間的のことではない。
「私が神の指で悪霊を出しているのなら、神の国はあなた方のところに来たのである」(ルカ11:20)今幸せいっぱいの方には理解できないかもしれませんが、災害、事故などで最愛の者を失う不幸があるとき、「御国を来たらせたまえ」と祈らざるを得ません。
2015年10月4日(日)
「つまずき」
二足走行の人間は、石や段差といった物理的なつまずきもありますが、より重いのが心の「つまずき」です。
「つまずき」は人生の岐路です。
救いか滅びかの一方であって、中間はありません。
「つまずき」をのり超える超えないかは、能力の問題ではありません。
信仰のことです。
「つまずき」の原因、事柄に向かってうまく乗り越えることが出来ればよいが、できなければ命とりとなります。
いろんな場面にこの石は存在します。
その時の成熟度とか受け止め方によっても救いか滅びかの二者択一です。
好んで滅びを選ぶ方はいません。
でも克服できなければ危ないのです。
「十字架のつまずき」に対して克服できたのは恵みです。
よく信じられたからです。
そのようにもたらしてくれたのは、十字架の主です。
「つまずきの石」である主の恩寵以外にありません。
だから奇跡なのです。
2015年9月27日(日)
「はね返す力に生きる」
 今日悲しむべきニュースが日々報じられています。
どうしてこんなに多くの人々が痛みの中にあるのかと思います。
聖書はそれは「まことの神を失っているところにある」といいます。
そしてそのようなところでは人は汚れた霊(人の心をおとしめる悪い言葉)のとりこになってしまい、病んでしまうのだと言います。
しかしイエスのそばにはいつも生活の上で悩みを持ち、又、病気で苦しめられている人々が沢山集まってきて、癒されてきました。
それは、イエス・キリストという健康な力と健康な神の霊(人のいのちを生かす、良い言葉と行い)に生きた方がそこにいてくださったからです。
この世の闇の力をはね返し、死よりよみがえったイエス・キリストを信じ、共に歩むとき、果てしない私たちの愛の労苦も、やがて必ず実ることを私たちは信ずることができるのです。
2015年9月20日(日)
「抜け目ない管理人」
不正が発覚して身の置き所がなくなった「不正な管理人」は、主人の最後通告を受けて、非常手段として、自らの救いのために帳簿をごまかし主人の負債者に対して主人を出し抜いて不利な証書を書き改めさせます。
切迫し、急場から救われたい一心からかこの管理人のこの抜け目ないやり方を裁かないで主人は褒めています。
なんと寛容なと思います。
この世の子らは自らの救いのために不正な富を不道徳とか非倫理とかでなく終末論的に救いにかけています。
ましてや救われた者が「富」に対する利用の仕方は、神の国のために「不正な富」であっても友を得るために(友の救いのために)用いよ、今ある富もやがて消え去るときがあります。
管理人は、神から富をゆだねられたのです。
それをどのように使うかは、任されています、しかし、主人が喜ぶような用い方をすることが任された者の責任です。
この世の子らよりも賢く生きたいものです。
宝を天に積むように!
2015年9月13日(日)
「放蕩息子」のたとえ
表題は「放蕩息子」の譬えとなっていますが、本当は、愛の神の譬えです。
前の二つの譬えも否定的な言葉で見失った、とか無くしたという言葉で表現されていますが、二つの譬え話は、「見出した羊」であり、「見つけた銀貨」であります。
どのたとえの終わりも「喜んでいる」で結ばれています。
つまり神が受け入れて喜んでくださるということです。
そして三つ目の譬えで、肯定的、積極的な特徴は、「父なる神の愛」の譬えであります。
しかも神御自身が、帰ってきた息子とともに、歓喜しています。
見失った、とか、失った以上のこと、死んでいたのに生き返ってきた。
礼拝において命を与えられ生きるものとされています。
が、私たちの喜びであると同時に神の喜びであり、父なる神御自身が慰められていることであります。
2015年9月6日(日)
「弟子の条件」
誰であれ、自分の十字架を背負って従うものでなければイエスの弟子でない。
と明言する相手は、今日のセクションでは、愛弟子とは異なる少し大勢の群集に向かっての弟子の心構えを言っています。
しかしその内容は愛弟子に対するのと少しも変わりません。
十字架の道を歩まれたイエスのように刑場に赴くイエスの姿のようにです。
この二つの譬えから、彼らの熱心さが地に着いたものであるかどうかです。
よく考えての行動なのかを諭しています。
すぐ困難が来ると未完成で終わらせる建物や、早く和睦せよとは、神に無条件降伏して従うということであります。
一時の激情でなく、持続的な最初の約束に対して誠実さはあるが、時の経つうちに消えていく、続けられない。
教会生活が、苦痛になり、主との約束よりもこの世の約束の方が優先され、塩味を徐々に誰もが気が付かないうちに失っていく信仰の危機。
主から突き放されているような弟子たち。
しかし、2千年間のキリスト教会の継続は、人間業でなく、聖霊の業です。
あるいは、神に無条件降伏した者の勝利の歩みです。
2015年8月30日(日)
「真の平和を実現したキリストと共に」
「神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。
これは、コリント人への第二の手紙5章18〜19節の言葉です。
真の平和はキリストによって、すでにこの社会に実現していることを示し、この和解の言葉をわたしたちがこの社会に実践するよう促しています。
この夏私は、この和解の言葉をもって真の平和を実現している人々と出会いました。
確かに、私たちの周りでは、悲しむべき出来事、失望せざるを得ない場面が多くあります。
しかし、私たちは失望しません。
キリストによって、真の平和がすでに実現しているからです。
礼拝を通し、そのキリストに出会い、力を与えられて、平和の使者とさせていただきましょう。
2015年8月23日(日)
「みことばが力となる」
ヨハネ福音書4章の大部分を占めるのは「イエスとサマリヤの女」と題された物語です。
主イエスはサマリヤを通られたとき、井戸端で心に暗闇を抱えた一人の女性と出会います。
サマリヤの女性は主イエスとの出会いと会話を通して、自分の心を主イエスは知っておられる、自分の心の暗闇を知っておられるということが分かり、主イエスの言葉が心に沁みてきたのです。
主イエスは、私たち一人ひとりの暗い現実に触れて、その心の暗部をあからさまにされるような、痛みを伴うようなことを語りかけてこられることがあります。
その時にこそ、暗闇に光が差し込み、その人を輝かせることが出来るのです。
人間はだれでも疲れます。
その疲れを癒し、渇きをいやしてくださるお方がキリスト・イエスなのです。
2015年8月16日(日)
「礼拝と正義」
預言者アモスのような闊達で自由な存在者がいなくなることはありません。
神が欲しているからです。
さらに神の言葉を信じる者は、この社会の矛盾、を鋭い感覚で見つめることができます。
私たちキリスト信徒は、誰も世の中を見る感覚が鋭くなっています。
アモスのような鋭利な神の言葉をもつています。
勢い生き方が鋭利になってきています。
見方や、判断も同じように鋭くなっています。
それで普通です。
神の言葉をいただいてそうならないのであるならば、御言葉をドブに捨てているようなものです。
信仰、良心が麻痺してしまっていることです。
神の霊によってアモスは獅子の咆哮のように民に、支配者に遠慮なく神の要求を訴えます。
預言者としてのイエスは「私が求めるのは、憐みであって、いけにえではない」マタイ12:7=ホセア6:6
2015年8月9日(日)
「想定外の喜び」
神の国の喩には、喩であるからでしょうか、誤解や曲解もあります。
わざわざ喩を用いて語られた当事者の思いが込められています。
悟者と悟れない者がいるのは、仕方がないのかもしれません。
神の国をわかるものは、少数者です。
でも、神は、30陪、50陪、100陪と、実をつけるとプラス思考です。
少数者であるが、良くやったと神の国では喜びがあります。
神の国では、給仕される者と接待する者と逆転してしまうほど、主の喜び方が語られています。
少数者への神の顧みと励ましがあります。
2015年8月2日(日)
「隣人になる」
良きものに与ってわかっていながら実行できない歯がゆさは、本人が一番よくわかっているはずです。
しかし主イエスは、「あなたも行って実行うしなさい」と、神への愛と人への愛が両立するすばらしい教えを聴きながら実行できないのは、まだ混とんが支配しているからであります。
神の律法が支配しているのではないのです。
これでは隣人が不在です。
私たちの信じている神は、信仰的エゴイズムを嫌います、自分さえ信仰を守り、信じていさえすればそれでよし、という神でなく、同じ創られた仲間に(兄弟)かかわり合う愛を要求します。
それを拒んでいるのが、律法主義者であり、罪人の姿なのであります。
十字架の救いこそが唯一の望です。
2015年7月26日(日)
「キリストと語りあえる者に」
 私たちが「キリスト・イエスと話し合える者」になる事は、人生にとって最高の宝です。
これは誰でも得る事が出来ます。
ただ、ちょっとしたコツがあります。
しかしこの「コツ」がなかなかのくせもので難所です。
多くの人々がここで失敗するのです。
そのコツとは、イエス・キリストの言葉を自分の耳で、目で聞くことです。
現代そのための最善の方法は、十字架を掲げているキリスト教会の礼拝に参加することです。
このことなくして最高の宝を得ることは不可能です。
約2千年前、最初にイエスをキリスト(救い主)と信じた人々がしたことは、イエスの足もとに座り、語られる言葉を聞き、なさる行為をその目で見て、イエスから終生離れることはありませんでした。
そこに人生の最高の宝を発見したからです。
キリスト・イエスはあなたの心を良くご存じです。
愛と憐れみの心を持ってあなたに目を留めておられます。
キリストと心を通わせ話し合える者となりましょう。
2015年7月12日(日)
「贖罪の大きさ」
宗教的、倫理的に大きな差別の中におかれ、身の置き所(居場所)のないものが、食事の席に訪れるという不自然な場面です。
大変勇気のある御婦人の行為をイエスは、喜んで受けておられます。
よく見ると涙されています。
私のようなものでも、この方は受け入れてくださっておられる。
差別され、虐げの中では、一滴の涙も出ないでしょう。
歯を食いしばってなにくそという思いに覆われてしまします。
しかし、イエスには大いなる赦しがあり、愛がありますから、受け入れられます。
それに感激し、泣いているのです。
私のようなものでも赦されているという感激と慰めがこのご婦人をとらえています。
神の赦しの大きさを測れるとすれば、律法でなく、イエス・キリスト以外にはありません。
2015年7月5日(日)
「深きあわれみ」
ルカは、自己の福音書と使徒言行録を通して、イエス・キリストの死と復活を頂点とする救いの歴史を現し、以後復活のイエスの霊(聖霊)によって教会の時代が到来したことを告げています。
頂点である復活に先立って、本日の出来事は、旧約の預言者(エリヤ、エリシャ)の先例にならって、ナインの寡婦の一人息子を生き返らせ、神の深い憐みがもたらした奇跡であります。
死をも凌駕するイエスの権能は、やがて来るご自分の死と甦りを予示しています。
がこれが終わりでなく、まだ人間の救いの歴史が続くことを現します。
それはイエスの復活が頂点ではあるが、イエスの宣教の終わりではなく、救いの歴史の中項(時の中心)に置いて、イエスに力を与えた聖霊が、今や教会に命と宣教のために与えられようとしていることを前もって示しています。
2015年6月28日(日)
「イエスの権威の豊かさ」
「この人は〇〇方面の権威です」という言葉を時々聞きます。
権威とは「人に承認と服従の義務を要求する精神的・社会的また法的威力」と説明されていますから、何らかの権威を持った人の発言は、社会的にも大きな影響力があります。
それだけに、その人は、その分野で自由に振る舞う事が出来る反面、責任も重大です。
なぜなら、その権威を盾に他人を思い図ることなく発言し、行動するならば、社会が混乱する事もあります。
イエス様も神の権威をもっていました。
彼は神の真実の権威とはどういう事かをその生涯を通して示されました。
イエス様の権威を心に受け入れ、膝まづいて、へりくだって、心を柔らかにしてイエス様に委ねつつ歩んだ人々のその顔ぶれをみるとき、イエス・キリストの権威がどれ程恵み深く豊かであるかを知ることができます。
それは、人を生かす権威です。
十字架の上で私たちを赦して下さっている主イエスの豊かな自由な愛を受け入れて、生活していきたいものです。
2015年6月21日(日)
「教会のよろこび」
ルカは、失われた羊の回復などのたとえ話を通して、神が我々人間の「悔い改め」を迫っていることを語ります。
こののたとえは、日常生活的背景を思い起こしながら、神と人間の関係が、調度羊飼いと羊のたとえとしてわかり易く語られています。
たった一匹の救出、たった一個のコインの探し当てることのその喜びは、現場の生活を知って者にとって、どれほど身近なものとして直接伝わってくるようです。
確かに罪びとの「悔い改め」の喜びは、神の国の喜びとなります。
この喜びが、人生の中の1回こっきりのことでなく、日常的に繰り返し、繰り返し起こることであります。
我々人間の「悔い改め」が繰り返し起こるときにその都度、神の国では、喜びが起こります。
ということです。
我々は、もうすでに「悔い改めて」救われているから、自己中心的にもう必要がない事柄でなく、悔い改めの悔い改めを神の国は求めます。
教会は、その度ごとに神の国と共に喜びあふれます。
それが聖霊の働きなのです。
2015年6月14日(日)
「あなたの信仰があなたを救った」
迷信とも思える娘の願いは、藁をもすがるようなせつなく心細い救われたい願いでした。
礼服の房に何の救いの意味があるのかと他の人は思うかもしれません。
そして隠れて密に非公式にイエス(主)の救いに与かろうとします。
主は真面(正面)から応じます。
主の我々人間に対する応答です。
だから正面に立たせられるのです。
そうすることが救われるものにとって必要であるからです。
罪びとである人間を主は心底から愛し、救い自立させようとしているからであります。
「あなたの信仰があなたを救った、安心していきなさい」。
房でなく、主が救ったのですが、人間の自立を心から願っています。
いつしか娘の救いの細い期待願の線は、主の応答によって生かされ太い線となって主流となり成長します。
主の御言葉によって成長します。
2015年6月7日(日)
「神の国の食卓」
今日、この後で、主イエスの聖餐式がありますが、しかし、この聖餐式には、私たちの内の誰一人として、自分はこれに与ることのできる資格があるのだと思っていらっしゃる方は、いないと思います。
もし思っている方がいらっしゃるのであれば、それは大変な思い違いです。
なぜなら、「招かれた人で、私の食事を味あう者は一人もいない」(24節)とあるからであります。
つまり、招かざる客なのです。
全く相応しくない、不適格者であり、資格がないのであります。
『神の国の食卓』にあずかることができると、当然と思う人はいません。
受ける資格があると当然と思っていても神の方で認めません。
その食卓に与ることができるとしたら、それは、神の憐みと慈しみでしか実現することのできなかった食卓であります。
主イエス・キリストの十字架の死と甦りによってのみ、もたらされ実現された救いの主の食卓であります。
イエス様の同じ釜の飯をいただくことによって心が一つにされ救われ主の体としての教会共同体が生まれるのです。
2015年5月31日(日)
「そして家族になる」
新約聖書で最初に登場するのはイエスの家族です。
この家族にもいくつかの危機ともいえる問題が生じています。
それらを乗り越えて再生した家族でもあります。
このイエスの家族を通して教えられることは、一つには、子どもとは「つくる」存在ではなく、「授かりもの、神からあずかった」存在だ、ということです。
二つ目は家族として時間を共有した後、子どもがある年齢に達した時は、親の子離れ、子の親離れが双方の自立と成長のために必要だということ。
ここで大切なことは祈りです。
そして、それらを包括する最も大事なことは、主イエスの言葉としての「隣人を自分のように愛しなさい」であること。
これは具体的には「お互いを尊重する」ということ。
最も近い隣人は家族です。
幼児虐待やDVなど犯罪につながる場合を除いて、時と場合によっては困難な時もあるかもしれませんが、祈りをもって、家族一人一人のあり様を尊重するとき、「そして家族になる」道が開けてくるでしょう。
2015年5月24日(日)
「宣教の開始」
イエス・キリストの十字架の死以後、意気消沈し、内に籠りがちな弟子たちに復活のイエスは、五旬節の日に約束の聖霊を送るまで待機するように言われました。
この待機の時ほど弟子たちにとって重苦しい時であったことです。
弟子たちはイエスの母や、兄弟たちの赦しの中で祈りあいました。
赦しがなければともに祈り合うあうこともできなかったでしょう。
このような状況におかれているのは、すでにイエスの霊が働いていることです。
旧約から新約へと続く聖霊の働きは、この時代に来て、はっきりと聖霊自らがイエスの霊として行動していることです。
三位一体の第三位格である聖霊は父子と共に働いていましたが、ここに至って聖霊自らが行動し、正式に聖霊の時代(イエスの霊の時代)へと救いの歴史が進んできたのであります。
弟子たちの宣教が開始されたのです。
2015年5月17日(日)
「詩とさんびと霊の歌」
キリストの教会は、初代から現代に至るまで礼拝の初めから終わりまで神をほめたたえる賛美の歌が、どのような状況においても絶えませんでした。
死も生も生きるにしても死ぬにしても総て主のため、神のためになされた行為です。
礼拝は神への賛美の歌で満ちています。
説教では、言い尽くせない、欠けをもおおってくださり、あまりあるメッセージです。
歌詩や曲(メロデー)が美しいとか、歌うと気分がいいとか以上に、歌詞文言に秘められた意味こそが、曲に合わせて歌われ、会衆全体が、主を賛美、歌うことによってメッセージを奏でているのです。
教会全体で説教し、福音を語っているのです。
実にすばらしい信仰の告白と賛美を一貫して語っているのです。
2015年5月10日(日)
「これほどの信仰」
世俗世界に従事する一介の兵卒がイエス・キリストとの出会いにおいて褒められております。
「これほどの信仰」、しかも宗教・信仰の本家であるイスラエル・ユダヤ人のまえで、全くと言ってよいほどの宗教と信仰に関係ないかのように思われている兵卒(洗礼も悔い改めもない)が褒められています。
世俗の権威(軍隊)でも規律の厳しい異邦人の兵卒が評価されています。
それは軍人という相対的な権威の中にありながら絶対的な権威に服する人としてイエスに認められております。
秩序が乱れ命令系統が混乱し、規律が保てなくなった軍隊は、崩壊します。
兵卒はよくわきまえて、イエスに応えています。
「お言葉をください」この一言にこの兵卒の信仰が言い表されています。
信仰とは聞いて従うことです。
しかもイエスの言葉に絶対服従する姿勢は、見上げたものです。
この社会には、この姿勢が全くと言ってよいほどなかったのです。
2015年5月3日(日)
「主の強いみ手によって」
主の限りない愛によって、イスラエルは、勇ましく出エジプトが出来ました。
「主のみ手」が強く働き、頑迷なこの世の力に屈することなく脱出ができた。
これは、民族が歴史的に常に感じてきた「主の御手」の救出であります。
これなしには、この民族はなかったでありましょう。
そして この時だけでなく、バビロンからの解放も武力なしの「主の力強い御手」がありました。
異民族の我々日本人には、このような救出を感じられないかもしれません。
しかし聖書を信じて歩んできている新約以後の我々キリスト者には、これと同様な救出がなされています。
民族でなく、個人の事柄としての救いです。
それは、イエス・キリストによる罪の贖いとしての十字架の死を通しての救いであり、さらには、今も主なる神は我々に第三位格の聖霊を送り力強く救出し導いておられるのです。
2015年4月26日(日)
「イエスに祈られている者」
キリスト教において、「ユダ」は、イエスを裏切って敵に売り渡した人としてよく知られていますが、きょうの聖書の箇所に「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。」というペテロの言葉があります。
ユダもまた、イエス・キリストに選ばれた仲間の一人であり、イエスの教えを聞き、その奇跡を目にした仲間の一人であり、そして最後に、イエスを見捨てた点においても、彼らは皆、仲間だったのです。
しかしその後一方は死への道をたどり、他方は生き残りイエスを伝える者となりました。
その分かれ目は何だったのか。
私たちはイエスが語られた「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という言葉に注目したいと思います。
主イエスの選びが、キリスト者の原点であるとすれば、主イエスの祈りが、キリスト者を支え続ける原動力です。
そして、その事があるから、私たちもまた互に祈り合い、支え合うことができるのです。
2015年4月19日(日)
「十字架と復活の証人」
証人といっても、旧約聖書を信じているユダヤ教徒のような信じて証する聖書学者(パリサイ人)のような存在ではなく、それ以上の聖書と解く鍵を授かったのです。
それは十字架の証と復活の証であり、 旧約聖書を証しまた、解く鍵を授かったのです。
イエスの弟子は、復活以前のイエスの証言だけでなく、十字架の死後、復活のイエス・キリストをメシア(民族的でなく、世界的救い主)として証する重大な新しい務めを主から授かりました。
復活後のイエスの弟子たちに対して、新しい使徒としての基礎づけをしていただいたのです。
これは我々が受ける資格、そのような資質があるとか優れているとかでなく、一方的に授かった恵みです。
全世界に出て行って大胆にイエス・キリストを証し、宣教する者とされているのです。
キリストの教会は、ユダヤに止まることなく、当初から世界的な宣教の広がりを見せていました。
2015年4月12日(日)
「エマオの道で」
主の十字架の死直後の弟子たちは、取り乱し困惑・絶望・失望・悲しみの混じった失意のさなかに陥り入り成す術をなくした。
三日目にしてやっと動きだしました。
殺戮と陰謀に脅えていかねばならない奈落の底に突き落とされた感じです。
エマオ途上の二人の旅人も涙の谷を渡るような失意に満ちた旅でした。
二人は悲しみに籠ることなく、その悲しみをお互いに会話し前後策を練っていたのでしょう。
悲しみの真ん中に見ず知らずの方が近寄り話しかけます。
主はいつの間にか私どもの会話の中心においで下さっておられます。
それでもあまりの悲しみに心が閉ざされ見るべき御方を失っていました。
だから主の方から自らを示してくださりました。
パンを裂く動作の姿に彼らの脳裏に焼き付いている主の姿の再現です。
あれは主だ!聖餐式を通して、今も臨在の主です。
2015年4月5日(日)
「新しい出発」
イエスの弟子たちは、二重の意味(ガリラヤ、エルサレム)で故郷を失っています。
あれほどの奇跡をもたらし多くの人たちの希望と救いの主イエスが十字架に死して、追従してきた多くの弟子たちにとって失意、挫折、侮辱、苦痛に暗く沈んだ時期です。
復活の使信を聴いても固く閉ざされた心は信じようとしません、じっと自己に沈み込む静止の時であった。
何も信じられなくなっている弟子たちに復活のイエスは、少しずつ御自分を現しました。
まずマリアに、そして二人の弟子に、次に11人の弟子に、そのうちには、500人以上の不信仰に陥っている弟子に同時にイエスは御自分の姿をあらわし世界中に弟子たちは宣教へと散って行ったのです。
イエスは、今でも私たちの頑なな心の扉を打ち砕き不信仰から信仰へと新しい出発させています。
2015年3月29日(日)
「わたしの言葉は滅びない」
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
イエス・キリストの生きた時代、又、このマルコによる福音書がまとめられた時代も、現代と同じように、火山の噴火・地震等の天災、そして反乱や略奪などの人災によって、一般庶民の生活は脅かされていました。
そのような人々の希望の光であったイエス・キリストが、十字架にかけられ死を迎える。
その時を目前にひかえ、信仰者に語られたのがこの言葉です。
「今、私は十字架にかけられる。
しかし、それは甦りのいのちに生きる事だ。
そしてまたここに帰ってくる。
あなたがたのいつもそばにいるために。
そして、最後の勝利を必ずもたらす。
それを信じて生きなさい。
何も見えなくなったと思う時も、わたしはあなたがたのそばにいる。
それを忘れないでほしい」。
これが「わたしの言葉は決して滅びない」と言っておられる内容です。
私たちは「決して滅びぬもの」に固執して生きていきたいものです。
2015年3月22日(日)
「ブドウ園の農夫のたとえ」
借り物の土地では身が入らないと思います。
しかし主人との契約関係があるので、さぼれませんし、収穫の時期が来て(5年後)収穫物の一部を雇い主に納めなければならないが、しなかった。
追い返した。
およそありそうもないと思いますが、当時パレスチナでは同じような事件があったようであります。
そして再三同じようなことが行われていたようです。
主人が傭兵(又はローマ兵)を遣わして厳重に処罰したに違いありません。
しかしそれも主人はせずに、最後に最愛の息子(独り子)を遣わしたが、それでさえも殺されてしまいます。
イエス・キリストのご受難の喩話であります。
はたせるかなBC70年ロマ軍は、形骸化したエルサレム神殿を廃墟にしてしまいます。
神によって任せられた自らの統治権ができなかったのです。
今住んでいるこの私たちの世界も神からその統治を任せられてはおりますが、主なる神が終末の時にどのように裁くか。
2015年3月15日(日)
「主の変容」
この変容が起こったところは、イエスが祈るために高い山に登られた時(夜)のことです。
弟子たち(三人)は驚きよりも恐れを感じたのです。
師と仰ぎ救い主と信じ告白した第一弟子のペトロに対する神の方からの答えのような感じがいたします。
聖書の中には、顔が一時的に変わったという場面はモーセが神から律法を授与された時、群衆はあまりの輝きに見ていられなくなったとあります。
しかし、イエスの場合は、祈られている間に起こったことのようです。
様子が変わったことよりも、この時に雲の中から神の声が聞こえたほうのが重要です。
この声は、イエスの洗礼の時も起こりました。
モーセやエリヤ、彼らはいずれも神によって天に挙げられいなくなっています。
その彼らは、イエスの受難の内容を語っています。
大切なのは、雲の中から「これに聞け」というこれまでにはない、強い神からのメッセージが語られていることです。
2015年3月8日(日)
「パリサイ人の問い」
際どい論争に持ち込むことの絶えない宗教家(律法主義者、パリサイ人)らは、今日でも多くいます。
イエス・キリストは受難に先立ってかなり激烈な論争を当時の権威者とやりあったようです。
そして論争に巻き込まれながらイエスの応答が、明解に記されています。
613項目もある細かな規則づくめの律法を持っている律法の限界のようなものを感じていたのでしょうか。
あれもこれもと律法に振り回され本当に大切なこれを失ったら信仰が失われてしまいかねません。
イエス様は、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とが同程度に重要の事柄であることを教えています。
それは自分の全身全霊、全力を持って主なる神を愛することであり、さらに「隣人を愛すること」であったのです。
愛することに、距離があったり、中途半端なことはできないのです。
「あなたは遠くない」とは距離があったのです。
これでは本当に愛したことになりません。
2015年3月1日(日)
「交わり」
この世界は、さまざまな意味で、「交わり」を阻害しています。
つまり平和が破壊されています。
武力や暴力によらなくても「交わり」を損ねています。
その根底には、聖書は一貫して人間の罪が根本原因であることを挙げています。
そのための修復が必要です。
そのために神のほうから一方的に手を差し伸べ、キリストの十字架であります。
「交わり」は人間同士の横の関係と神との縦の関係にも使われます。
「交わり」を強く意識したのは、新約に入ってからです。
旧約時代では、神の御言葉や律法を守ることに重点があり、それは疎外感(隔たり感)を強くするのみでありました。
人間のほうからこの「交わり」を構築し、到達することができなかった。
新約になって主イエスの贖いの死を通して神の赦しに与り、神の子として正しい子の立場に参与せしめられ召されてキリストの僕の群れに加えられ「キリストとの交わり」に赦されて与ることができたのです。
洗礼と聖餐は「交わり」に欠かせないことです。
2015年2月22日(日)
「勝ち組」より「価値組」の人生を
私たちの社会は競争社会だと言われます。
ある意味で、人と人が切磋琢磨して、互に成長していくことはいいことです。
しかし、それが「競争」とならざるを得なくなっていくときに、人間は互に成長できるどころか逆に切り捨てられ、最悪の場合には亡き者にされていきます。
社会というのは、人間がいるから社会となるのです。
社会があるから、人間がいるんだ、なんて考えたらとんでもないことです。
その考えは、社会が大事であって、人間は二の次になり、「物」扱いになります。
多様な価値観の中で、最も基本となるのは「人間がいるから社会となる」ということです。
そうしたら「人間一人一人を大切にしましょうよ」となります。
生きていく中で本当に大切なことは何か、本当に価値あるものは何かを見つけることで、他者と共に歩むことができる、そうした「価値組」としての生き方をイエス・キリストは自ら示してくれました。
豊かな社会がそこに生まれます。
2015年2月15日(日)
「みすてない神」
世の中には捨てられる神は、多くいます。
それは人間の不都合による捨てられる神(=偶像崇拝的な神)であります。
しかし、主なる神は、人間のこちら側の都合によって捨てられたり、つけたりするような、飾りもの的な神とは違い、人格的な神でありますから、神の側から人間を捨てられないのであります。
つまりたとえ人間の側の不都合で信じない(捨てる)ことがあったとしても、キリストの主なる神は、人を捨てないのです。
神が選んだものを最後まで捨てずに、忍耐して愛してくださいます。
救い=あがなって下さいます。
元の関係に戻そうとして下さる神です。
そのもとの関係に戻そうとする働きをするのは、罪人である人間にはできませんので、主なる神の側から一方的になして下さり、とりなして下さって何とかあがなっているのであります。
これをキリスト教でいう「救い」とか「解放」とかいわれる「あがない」の意味(行為)であります。
神の御決意のあらわれが、イエス・キリストの派遣と十字架の死によって言い表されております。
第二イザヤは、新約の救い(意味・内容)を決定づけています。
2015年2月8日(日)
「癒しと赦し」
世俗的人間であるならば、名声の為に奇跡を行うという事はよくあることです、しかしイエスのこの行為は奇跡のための奇跡でなく、行為のための行為でなく、そこに今現在、神の御支配とか神の国を現実を鮮明にしたいからであり、自己実現のための行為では決してありません。
当時このような病気の方の奇跡は、ほとんど不可能でありました。
患者が「御心ならば」とあるほど全面的にイエスの御心に委ねた信仰から出た願いです。
イエスも御自分の死の間際(ゲッセマネの園)において同様ような言葉で祈られています。
聖書の中でこの病に奇跡的に癒されたのは、モーセの妹ミリアムとシリアの将軍(ナーマン)の二人以外いませんでした。
それ程一般的でない難病でありました。
でもイエスは御手を 置かれて癒しています。
しかも律法の規定を守り公に「清く」なることまでも支持命令しています。
この患者にとって「清まる」ことが罪からの赦しであつたのです。
「癒しと赦し」を徹底しています。
人(罪)を救うという事の徹底ぶりがうかがえます。
2015年2月1日(日)
「天国の知恵」
天国の労働者である種蒔きの主人は、神です。
神はこの世界に対してどんな時にも御言葉の種を蒔いておられます。
最も必要としている人間に蒔いております。良い種にもかかわらず、しばしば良いとは言えない収穫があると言っています。
道端や石地や茨(雑草)に落ちたものは、実をつけることなく枯れてしまうことは、何を意味することことでしょうか。
神のみ言葉である良い種が、失われることであります。
御言葉の消失は、御言葉自身にその原因があるのでなく、蒔かれた地であります。
御言葉に心を開かない受け入れない頑なな心では、神の言葉が芽を出さず、成長せず、枯れて死んでしまう。
という比喩です。種には力があります。御言葉には育てる生命力があります。
人の心に入った「御言葉の種」は、人の心に深く入り根を広く張り活きよいよく力強く神の国の業を行います。
2015年1月25日(日)
「信頼し、素直に祈る恵み」
きょうの聖書の箇所は、一人の盲人が癒され、救われた出来事です。
43節に「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。
これは、普通ではありえないことです。
しかしこの時、この癒された盲人は普通ではしないことをしていました。
それは、イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と、人々に叱りつけられても叫び続けたことと、「主よ、見えるようになりたいのです」という本心を素直に願ったことです。
この盲人には、イエスという方が、この私(盲人)の願いに応えられる力量を持っている方(救い主)との信頼と、誠実に向き合って下さる方であるとの信頼があったからです。
私たちはこのように本心を安心して吐露でき、応えてくれる人を持っているでしょうか。
イエスを信頼し、素直に祈る恵みを知っている者は、この世の人生を快適に過ごすことができることを知るのです。
2015年1月18日(日)
「恐れることはない」
大漁の祝福でのうきうきした気分に、ペトロの悔い改めの告白は、落差があります。
ほとんどの者が漁の多さに気がいってしまいますが、ペトロだけは、主を恐れたのです。
これは彼の自らの自覚です。
「罪深い私から離れてください」この大魚の祝福と報酬に皆で喜び祝ってもよいほどの事ですが、彼の自覚は、「このような祝福と報酬の大漁の奇跡をもたらしてくれた方への自らの値いしない者として告白」しています。
だから値しない者への主の憐みであります。
主の憐みの大漁です。
大漁をもたらした主への告白です。
その告白に「人を取る漁師」として彼を召しております。
これは彼だけではない。
大漁をもたらし教会を祝福する方は、主です。
主のみ・こそが教会に「人を取る業をなさしめておられます」だから人間の功績によらない主の業の命令です。
2015年1月11日(日)
「ひとり子の受洗」
イエス・キリストの受洗を記した共観福音書は、受洗の際のイエスの体験を語ろうとしたのではありません。
福音書が関心があったのは、一つは、公務の仕事始めとしての出来事であり、これは預言者や祭司らが旧約から引き継がれている就任式です。
もう一つは、山上の変貌で語られている顕現です。
そこでは、洗礼の時に語られた言葉がもう一度神の声として語られております。
「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(ルカ9:36)と神の声が雲の中から聞こえたのです。
ですから洗礼は、秘儀としてキリスト教会では聖餐式と同じくらい大変重んじられている聖礼典の一つであります。
2015年1月4日(日)
「幼子はたくましく成長した」
古代世界で、幼児が順調に成長していくには、相当の人間的な配慮と努力が必要であつた。
現代でも5秒に1人の割合で貧しさゆえに命を失っていく子供たちが多くいます。
暴君ヘロデ王は、イエスの誕生の時に猜疑と恐怖に悩み2歳以下の男の子を殺戮した。
今も戦争、テロ、飢餓、伝染病で幼子、弱い立場の人たちが身を切り、命を削って生活を強いられています。
そのような中で、聖書は、「幼子はたくましく育ち神と人から愛された」と書かれています。
過酷な状況の中でも、親や周囲の愛と神の愛があってたくましく育っていったのがイエスであったのです。
これは神様の祝福があったからです。
イエスの両親は、律法と慣習に忠実であった。
そのようなご両親のもとでイエスは、知恵も背丈も神と人との恵みもまし加わって救い主として成人されました。
2014年12月28日(日)
「人生の回り道」
「マタイ福音書で最初にイエス・キリストを礼拝したのはユダヤ人以外の占星術の学者でした。
彼らは特別な王(メシヤ)の誕生を知りました。
それを知るために、東の方からはるばる星に促されて旅立ちました。
」聖書を読んでいると神様から召し出されて、今までの自分と決別し、新しい自分と出会うために新しい生き方をするため旅立つ姿が記されています。
人生の旅は決して簡単な旅ではなく、その背後には苦しみ・嘆き・恐れ不安等があります。
でも、迷いや不安・危機が伴う旅路の末に喜びが満ち溢れることになるのです。
どんな時にも、聖書の言葉を信じて生きること、メシヤのもとでしか味わうことの出来ない大きな喜びに与かるために2015年も小さな一歩を踏み出し、歩み続けましょう。
2014年12月21日(日)
「降誕の約束」
マリアに約束された神は、この降誕を通して人類(歴史)に関わりを持ちます。
なぜ神が関わりを持たれるのかは、神は人類を愛するからです。
我々が信じるか、信じないかという我々の側の主体でなく、神が率先して関わることです。
それも神の聖なる歴史によってこの世の人間に関わろうとしているのです。
「どうしてそのような事がありえましょうか」というマリアの疑問、「神にはできないことは何もない」との御使いの言葉に、「お言葉通りこの身になりますように」信じて受け入れています。
これは、御心ならば、という意味でありましょう。
御子の降誕の出来事は、神の聖なる歴史であります。
この聖なる歴史をマリアを通して神は実現させておられるのです。
混乱した我々の歴史に神が御決意をもって介入するという。
マリアと神のこの出来事は、誰もまねができませんし、模倣も再現もできない一回限りの出来事です。
この約束をとおして神は、人類の歴史にキリストの十字架の死による贖いを計画していたという事です。
2014年12月14日(日)
「救いの光」
保育園でのイエス・キリストの降誕劇楽しく見ることができ、保育の先生方のその努力が報われているような思いになります。
よくできているなと思いました。
巷でも、時期としてクリスマスが盛んに行われております。
現代のヘロデ王は「恐れた」ないのでしょうか。
社会はこの祭りにごまかされて真実を見失いやすいです。
聖書では、「恐れるな」とあります。
万物の相続者、世界を創造された御子、神の栄光の反映、神の本質の完全な現れ、万物の支配、罪の清め、天の座等々ヘブライ書は、近づきがたいメシアを描いています。
神がそれ程のお方をこの地上にお送りするという事態に「恐れ・畏れ」を感じないでしょうか。
ヘロデは恐れた。
我々凡人には、解らない「恐れ」を感じたのでしょう。
「恐れるな」と言われて「恐れを」感じたのでしょうか。
光の届どかない地のはての宣教が必要なのではないでしょうか。
2014年12月7日(日)
「待つ」
クリスマス・アドベントは、訳せば、キリストの御降誕を待つという意味でしょう。
しかし、この待つのは主なる神の方です。
なぜか、私ども人間が、失ってはいけないあるものの為に、神の方から差し出された「待つ」です。
私ども人間は、総じて失ったものとは、「自分」です。
自分が何者であるかを失ったのです。
行ってみれば迷子になったという事です。
神の方から迷子の子を探し求めているという事です。
「アイデンテイテイ」の喪失(自己同一性の喪失)を神の方から回復しようとしている行為です。
人間は自分の方からこの回復を失い、回復できなくなってしまっています。
どうしてよいのかわからなくなってしまっているのです。
クリスマスは、神が我々人間に与えられた自己同一性の回復のチャンスなのです。
預言者イザヤは御子イエスの降誕に先立って700年前に預言していたという事です。
これは神がイザヤに預言するように語らせたことです(これを啓示と言います)。
2014年11月30日(日)
「クリスマスの恵みのはじまり」
クリスマスの始まりともいえる「種」は、創造主なる神がアダム(人)を創造した時に遡ります。
神は「ご自分にかたどって人を創られた」。
つまり、人は神の呼びかけに応答する感性を備えた存在として創られたのです。
その意味で、人は尊厳を持った存在として、神と親しく呼びかけ応答する信頼関係にありました。
しかし、神から禁止された「善悪の知識の木」の実を食べることによって、人は創造者と被造者という、越えてはならない境界線を越えたのです。
「自分で、何でもできる」という人間の傲慢な姿を見る事ができます。
この「原罪」によって、人の世界に罪と死が入りこみました。
それでも尚、神は人を愛し、人類を罪から解放するメシヤを送ると約束しました。
この約束がクリスマスの種、恵みの始まりです。
神のみ子イエス・キリストの誕生は、人がエデンの園で失った神の似姿としての尊厳を回復するものでした。
それ故、人の中には何かないがしろにできないものがあるということを考えつつ、クリスマスを待ちたいと思います。
2014年11月23日(日)
「収穫の主」
収穫物を携えて主に感謝の捧げ物する行為は、喜びがあふれています。
自ら得た収穫物を感謝の捧げ物として礼拝に持参した習慣は、聖書では、創世記4章にカインとアベルが共に捧げたとあります程に古いのです。
単に私たちは収穫の喜びを表し感謝しますが、イエス様は、種まきの譬えで神の国は、もう既に私たちの中で成長し、実が成って収穫を待っているばかりであることを語っています。
人生の秋には、人間を創造した神は、私たちの実りをもたらそうとしております。
神は我々にそれぞれ収穫の実りをもたらして下さいます。
同時に神も我々人間に期待しております。
我々の収穫の実りはなんでしょうか。
神が喜ぶ収穫物とはなんでしょうか。
野山が色ずき、赤や黄色、オレンジなど様々な彩りを見せる秋は、収穫物でにぎわっています。
私たちの本当の収穫物はなんでしょうか。
これは我々が自分の力で実らせたのとは、違い、神が各自にもたらそうとしている実りです。
イエスキリストにある収穫です。
それは砕けた悔いた魂です。
詩編51:19
2014年11月16日(日)
「モーセの召命」
人間的な召命とは違い神の思い、み旨にそう召命がなされます。
それでも暫し挫折したり、放棄したくなるような神からの召命は、相当力強い神の御意志が働かねばならないことです。
モーセを召した神は、その目的を示します。
自然界の不思議な現象を用いながら自然を超えた主なる神の招きを感じ取れたのでしょう。
エジプト王の追手を逃れて40年彼の生涯は一介の羊飼いとしてその一生を終わるのではないかと思われた時(80歳)、荒野でいつものように羊を飼っていたその最中、「燃えるしば」の中から神の招きを彼は聞いたのです。
その内容は、アブラハム、イサク、ヤコブの神として契約の神御自身が、イスラエルの民の苦役を肌で感じ取り深く憐れみ、その救出の為にモーセを通して主が動くことを聞かされます。
思いがけない時に思いがけない方法で、主が招いておられます。
我々もイエス様からの招きを自己計算を超えたところから実に思いもつかない、時と所と手段で神は私たちを召し、用います。
主の御用のためにです。
2014年11月9日(日)
「神の約束」
熱砂の真昼時、信仰の父であるアブラハムは、暫し朦朧としていた。
突然目の前に現れた見知らぬ旅人に驚いたのでしょう。
でも旅人をもてなすことには、躊躇していません。
「通り過ぎないでください」これは「あなたの前にめぐみをえる」 という意味だそうですが、さらに言えば、「無視しないでください」とも受け取れます。
主なる神に対して無視しないでください、関係してください。
とも取れます。
最上のもてなし方をしています。
この行為に主は、「来年の今頃あなた方には、必ず、男の子が生まれる」この約束にたいして、彼ら夫妻は「笑った」のです。
笑いには、いろいろな意味があります。
17勝12節では、アブラハムが信じてない「笑い」をし、又この18章でも彼のつれ合いのサラが「笑った」とあります。
これは両方とも不信仰な「笑い」 です。
高齢という事で信じがたいことであったのです。
神に指摘されてサラは怖くなり「笑いません」と否定しています。
現実を見た時にとる我々の態度と同じです。
でも、主イエスは、「我々の中に留まってくっださっております。
高齢社会にあってイエスを「主」と告白する兄弟姉妹が起こされます。
2014年11月2日(日)
「栄光の喜び」
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現れるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」と言い切っておられる、この発言に対してついていけない方もいるかもしれません。
特に信仰者が困難に遭遇して信じているのにどうして、不条理である納得できないと思えるような出来事がこの人生には多々あります。
信仰している我々だけでなく、被造物(神によってつくられた)全体、あるいは神の霊(聖霊)もうめいております。
迷宮入りの事件もありますが、私たちに理解できない問題も全能の神の前には、決して隠すことなくすべては明らかになっております。
ただ、「取るに足りない」と言い切っておられる方には、それなりの御苦労があったにもかかわらず、イエスの栄光に与れるという確信があるから言えることです。
そして「辛さ」に振り回されるのでなく、信仰者として問題の直中において止まることなく、前進し行動していく「将来の栄光」を」信じて歩む前向きな姿勢が感じられます。
イエス・キリストにある喜びを感じます。
2014年10月26日(日)
「つらいときこそ心に希望と笑顔を!」
現在のシリアの隣国レバノンのあたりに、約2千年前チィルスという町がありました。
その町にイエスがいかれた時、その朗報を聞きつけた女の人が来ました。
彼女は自分の幼い娘が何か恐ろしい病気に侵され、母親として見るに堪えないつらい思いのうちにありました。
つらい思いの中で、しかし、このイエスという方なら娘をその苦しみから解放してくれるはずだという希望をみいだし、祈っていたでしょう。
ですから、イエスにお会いできた時、一度はイエスから癒しを断られても、「ごもっともです。
しかし食卓の下の子犬も子どもの落としたパンくずはいただきます」と言ってなおお願いしたのです。
イエスは「あなたの信仰は立派だ、願いどおりになるように」と言い、娘は癒されました。
「信仰」とは、希望を持つための強力なモチベーションです。
この母親はその希望を持ち続け、その結果下りの中にあって、上りを生きることができました。
「私たちは知っているのです。
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望は失望に終わることはない」(ローマ書5:3〜5)
2014年10月19日(日)
「イエスの幸いな人」
マリヤはお言葉がこの身になりますようにと祈られました。
我々も今日のイエス・キリストの山上の教えに、率直に聞き従い、イエスの祝福に与りましょう。
福音書の初めの方に、弟子達や群衆に語り掛けたこの「祝福」の言葉は、単なる幸福を言っているのではありません。
この言葉を100%信じていくとき、神のみ言葉が、我々において成就(実現)していくのです。
神の御言葉を聞いて信じ、それを守る人がこの「幸いな人」となるのです。
我々キリスト者は、全て。
この恵みに浴することが出来るのです。
そして、このイエスの招きの祝福の言葉を拒絶することはできないのです。
13:むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。
(それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。)ペトロ4:13
2014年10月12日(日)
「つまずき」
「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。
」躓きの石であるイエス・キリストご自身が、御自分の死に直面して、これほどの祈りを捧げざるを得なかった理由は、決して神を疑ってでなく、父なる神を信頼して、極みにおいて祈られておられます。
子であるイエスを死にまでおいやる神のお気持ちを量りがたかったのでしょうか。
イエスは「御心ですか」「みこころならば」 と言って「汗が血の滴りのように地面にながれおちた」真剣な祈りというより、戦慄するような場面です。
人類の罪が、神の子であるイエスにこれほどまでに極み尽きるほどに迫っています。
それは我々が受けねばならない受難(死)をイエス・キリストが負って下さっておられるという事です。
我々ならば、今受難をとっくに放棄して逃げていたでしょう。
しかし、イエスはこの受難を我がこと(御自分)のようにして受けられておられるのです。
そうまでして神が極みである愛を示されています。
これが理解できない人は、躓き倒れます。
2014年10月5日(日)
「手を大きく開く」
救いをもたらすためにこの世においで下さったイエス・キリストは、決して「無駄遣い」「浪費」を求めることをしませんでした。
むしろそのような事はお嫌いでしたでしょう。
二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったイエスは、12の籠にいっぱいになるほどに「パンぐづ」を集めさせました。
イエスにあって無駄、浪費は決してありえないと思います。
むしろ対立する無理解な者たちこそ「無駄使い、浪費」をし人に浪費を強いることです。
イエスは「一人の女」の行為をほめたたえています。
又福音が語られる時この女性のしたことはどこでも語られるとほめちぎっています。
4福音書がごぞってこの出来事を語っています。
「わたしの葬りの」備えをしてくれている。
王である方の即位が、その死によって完成するのを用意したのであります。
「この女性」の行為が無駄であるという批判にカバーするというよりも、積極的にプラスに解釈しています。
確かにこの世の経済感覚からすれば、ムダ使いであるかもしれません、しかし、イエスにあっては、決して無駄なことはありえないのです。
2014年9月28日(日)
「信仰の『いのち』」
キリスト教は、「世界とその中の万物とを造られた神」「天地の主」(使徒17:24)である神の存在を前提としています。
日本の伝統文化の中に受け継がれてきた「神々」として理解される神とは違い、ありありと存在している、絶対的な神です。
詩編139編の祈りの中には、そういった神の存在が豊かに告白され、その神に支えられた信仰者の姿を見る事ができます。
この祈りがなされた背景には、戦争により住み慣れた地を追われたこの信仰者の困難な生活状況があります。
丁度、東日本大震災・原発事故により、住み慣れた家とその地域社会をぐちゃぐちゃにされ、他の地域に避難を余儀なくされた人々、その生活基盤の不安定さから心が折られ、自死する人々がでてきています。
その人々が味わっている気持ちと重なるものがあります。
人間の「生」にとって、そのような困難な状況の中でこの信仰者の心を支え続けたのは「天地の主」である神の存在でした。
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」。
「わたしの存在を信じていてくれる絶対的な方がいる」という安心感が、この信仰者を生かし、心が折れることから守ったのでした。
信仰の「いのち」、それはこの私の存在を信じてくれている、絶対者なる創造の神、その存在を信じ、信頼することの中にあります。
2014年9月21日(日)
「永遠の命」
自分の命の延長線上に永遠があると思われますが、ニコデモは、ユダヤ教の指導者でありながら良く理解できなかったようです。
この時は新しく生まれるのはもう一度母の胎内へ赤ちゃんのように入ることですか。
と愚問しています。
誰でも水と霊から生まれなければ神の国に入る(見る)ことが出来ない。
これはイエス様によって制定された洗礼というサクラメント(秘蹟)です。
一度罪の自分が死んで、キリストによって贖われて新しく生きる。
この時聖霊が鳩のようにイエスに下ったと記しています。
聖霊は私たち一人一人に下るとともに、又更に、ペンテコステのように一同に同時にも聖霊が下ります。
新しさは、古さに対するものでなく、キリストの霊(聖霊、神の霊)を受けることが永遠への出発です。
2014年9月14日(日)
「かがまれる神」
旧約聖書の中でホセアほど神の愛を語った預言者はいません。
自分の生活体験を通して、背ける反逆の民イスラエルを徹底的に愛した神のいつくしみは、底が知れないほどです。
なぜか、これは神自らが契約相手としてイスラエルを選び、離さないからです。
人間同士の契約でも取り交わしたならば、重い責任がお互いにあります。
しかし神であって人間ではない。
よちよち歩きのイスラエルを出エジプトから荒野そして王国時代へと導き育てたのは、ほかでもないこの私であると神は語ります。
母親が嬰児を抱きかかえるようにして育て育むそこまでしなければ育たない。
しかし、イスラエルは成長するにつれて徐々に神から離れ、偶像に走ってしまった。
それでも身をかがめて導こうとした。
いや救おうとした。
この身をかがめる姿こそイエス・キリストのお姿であります。
ピリピ2:5-8
2014年9月7日(日)
「逆の祭壇」
旧約ではブドウに関する事は、「酸っぱいブドウ」という言葉のように悪く言われます。
新約になってイエス様ご自身が、「私は真のブドウの木」と言われ、イスラエルの正当な相続権を主張しています。
当時形骸化していたエルサレム神殿を譬えとして語っています。
けれども今日のキリスト教会とて、イエス様から同じことが言われないでしょうか。
つまり神の国の相続権を失うという事です。
祭壇は、人が神に捧げる行為ですが、逆に神自らが独り子なるイエスを捧げ、罪ある人間への執り成しをしております。
まさに逆祭壇ではないでしょうか。
神自らがこれほどの謙りをしておられるのです。
救うために!
2014年8月31日(日)
「心と心がつながる絆」
日本はほんの3年半前まで「無縁社会」と言われた社会でしたが、あの東日本大震災によって、人々は「人と人との、家族同士の絆の大切さ」に気づかされました。
あれから3年半の間に、被災者達は生きるために苦渋の選択を強いられつつも、かつての日常を取り戻す為には、各人の心をバラバラにしないこと、繋がること、そして絆の大切さを取り戻す為に、素朴な歩み寄りを地道にやって行こうとしています。
これは人間にとって大切なことです。
これと同じ事を、イエスは2千年前のあの社会でやり続けていました。
きょう聖書に出てきたザアカイも、こういうイエスの働きかけによって、人との繋がりを取り戻し、かつ、「余分に取り立てた税金があれば、4倍にして返します」と言えるまでに、自分を取り戻す事が出来ました。
人は「つながる力」で生きている。
そのことをイエスは私たちに教えています。
2014年8月24日(日)
「いのちへの不感症」
パウロの置かれている状況は、人間的に考えてみると決して喜ばれるものではありませんでした。
しかし、獄に捕えられているのにもかかわらず、人間の常識を超えて喜びがパウロにありました。
人間的には喜べないような状況に置かれる時も、様々な欠けや弱さを持っている人間を用いて神様の善い業をなして下さることに目を留め信頼して歩むことが大切です。
教会の交わりの中で、キリストの業が進められていることを喜び、共に生きる者とされたいと祈り願います。
2014年8月17日(日)
「第二の死」
現世的な我々には、聖書が示す「第二の死」などという事柄には、考えが及ばないかもしれません。
しかしこのような事でなくとも不慮の事故や自然災害、戦争の為に命を失っていく人の事を少しは考えると思います。
そして、行き着くところは命あつてのものだね、人は死ねばそれで終わりである、と思ってしまいます。
ヨハネはキリスト教徒として、為政者や権力者に翻弄され何も抵抗できない情けない自分を見つめつつ、主こそ我らをかならず顧みて下さる方であることを確信しておりました。
権力者や為政者はいざ知らず、奴隷や牢に閉じ込められていた者の死は、誰からも返り見られないで、情けない様でした。
偉い人たちの葬儀は立派です。
でもそれは誰もがおとづれる第1の死です。
第二にの死に気が付きません。
しかし聖書ははっきりと、私たちを死んだ後に裁くこと言っています。
その死は、永遠の死です。
第一の死は永遠ではないのです。
なぜなら復活があるからです。
2014年8月10日(日)
「ペトロの告白」
「あなたこそキリストです」第1弟子の最も最初の告白です。
しかし、直後にイエスの受難予告の告知は、弟子としてわからなくなるような混乱でした。
弟子たちは、誰もこのようにイエスから言われるとは思っていなかったでありましょう。
旧約以来メシヤ思想は、勝利の凱旋のようにしか考えていなかったので、十字架の受難に思いをはせる弟子は皆無であった。
無理もないことです。
我々が今日告白できるのは、十字架後の復活のイエスを信じることができるからであります。
当時であれば、我々も第一弟子のように感違いしていたでありましょう。
それでもイエスはペトロを祝福しております。
「幸いだ」と。
この告白にあった我々の日々の生活の証が求められることです。
2014年8月3日(日)
「最も優れた道」
私たち信仰者は、物事をトコトン突き詰めて考えるタイプの方が多いようです。
この年になってと思えるかもしれませんが、このパリサイ人もそのようなタイプではないかと思います。
そしてこの方は、敬意をもってよくイエス様に問うことが出来たと思います。
それもわかりすぎるくらいの事柄です。
律法の中でどれが一番大切ですか、旧約のレビ記や申命記をそらんじるほどに暗記している彼らにとって朝飯前の事柄のようにも思いますが、600余の律法の項目中どれをというときにとまどっているようです。
それは「神を愛すること」ですよ、というわけです。
それも限りなく、徹底的に神を愛することです。
それと同時に(自分を愛するようにあなたの隣人をあいしなさい」 とあります。
イエス様とこのパリサイ人はある意味で、ここで一致したような感じがいたします。
が、「あなたは神の国に遠くない」とおっちゃられ、一見誉められているようでそうではありません。
神の国で喜びがあるとはイエスは言っていません。
2014年7月27日(日)
「見比べることの悲劇」
ペンテコステの出来事の後しばらくの間、イエスを信じる人々は聖霊に満たされ、「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言うものはなく、全てを共有」していました。
後にパウロと共に世界宣教へと赴いたバルナバも、信仰によって自らの土地を売り、その全てを献げました。
それを見ていたアナニヤとサフィラ夫婦は、何を思ったのか、同じように自分の土地を売ったはいいけれど、その代金をごまかして献げました。
この行為は「聖霊を欺いた行為」でした。
この夫婦の心の根底には、バルナバと見比べた、信仰によらないなんらかの思いがあったのでしょう。
その命までも奪われてしまいました。
私たち人間はあらゆる事柄で、自分と他人を見比べながら生活しているところがあります。
他人と見比べるのではなく、私たちに「いのち」を与えてくださった主イエスを思い、見比べることの誘惑と悲劇から解放されて生きていきたいものです。
2014年7月20日(日)
「福音は全世界に」
「伝道」は個人的努力もあれば、教会のような組織を用いて進めるやり方もあります。
又流行に乗らずに進めるやり方もあります。
教会と信徒の伝道は、目立たず、謙虚に行われています。
一見効率よく大伝道集会のようなド派手な事をするよりは、教会にとっては、地に着いたこまめにコツコツとやる方法の方が息が長く続く良い仕事が残っていくと思います。
という事は伝道が日常化するやり方です。
小さく目立たずかっこ悪いかもしれませんが、聖書に出てくる伝道は、目立った方法のように見られがちですが、息長く小市民的な方法かもしれませんが、それでいて神の言葉は、決して「繋がれない」私どもの方法以上に御言葉の力、影響力があると思います。
福音の視野は全世界につながる方法ではないかと思います。
2014年7月13日(日)
「言葉の力」
執り成しの祈りは、自分たちの諸問題に閉じこもりやすい我々を解放してくれます。
本質的なキリストの使信を世界中に宣教する関係にしてくれます。
そして神との関係において執り成しの祈りが、他者に対する責任というテーマに向けられます。
このような執り成しの祈りは、活動的な対話の「時」に生かされます。
だから教会の言葉は、決して曖昧でなく、むしろ刺激的で、ピリッとし、癒し、かつ繕いつつ大胆に出されたテーマに食い込み、塩で味付けられるべきです。
この時、教会の言葉は、その奥義としての性格を失わない。
2014年7月6日(日)
「主を待ち望む者」
イエス・キリストにある洗礼を受けたものは、すでにキリストと共に死んだのであるから、キリスト共に復活され、新しい命に生きるものとされたのであるます。
しかし、いまだこの世を歩む信徒は、復活の命新しい命に生かされるという望によって信仰的に生かされています。
我らの新しいキリストにある命は、神の右に座するキリストの内に隠されています。
約束です。
これは宗教的エゴイズムでもなく、宗教的欲望でもありません。
この地上を旅する神の民である教会、キリスト者は、これでいいのだという自己満足や達成感はないかもしれませんが、我らの望は、キリストの内に隠されています。
やがて来られるキリストは、神の右に坐するものですから、全権力、全能者、創造者であり、一人も滅びないようにわれらを守ります。
信仰・希望・愛を持って歩みましょう。
2014年6月29日(日)
「日常生活の中の聖書の言葉」
日本の国を「キリスト教国だ」と言う人はまず無いと思いますが、しかし、面白いことに、テレビや新聞、日常会話の中にはよく聖書の言葉が平気でとびかっています。
その中の一つに「タレント」があります。
日本では、人気のある芸能人の事を「タレント」と言います。
これはもともとは聖書の言葉で、イエスは「タレント(才能、賜物)の活用」をすすめています。
イエスは言います。
「一人一人には神様から豊かなタレントが与えられている。
この事に気づきなさい」と。
一人一人がそのタレントを生かすために、私たちに必要なことは、成果をあげる(結果を出す)ことだけに集中するのではなく、互に仕えあうこと、つまり、1%でもいいから、他人の立場になって考えていくことだ、とイエスは言うのです。
それができたら、家庭が、職場が、学校が、社会全体がもっと豊かになりますよ、と言うのです。
神様から私たちに与えられているタレントが、どのように生かされていくのか、見てみたいですね。
2014年6月22日(日)
「心を一つにして」
初代教会から現代の教会まで、さまざまな試練、迫害にぶつかっても、教会(員)の深い祈りに共に支えられることによって、教会は神からの知恵、力、聖霊の導きをいただいて前進しました。
今日の聖書の箇所は、初代教会において、初めての迫害にさらされているときの教会の対応です。
行き詰った状況の中で互いに祈り会うところに神の霊である聖霊が働き導き、困難を克服し、道を開いてくださいます。
三位一体の神信仰に基づき告白されるところに、聖霊の業である御言葉が実在し働きます。
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